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 最期に一緒にいられないのは、それが最後じゃないから。
 また、二人で会えるから。
 凍えてしまった昔の体を、互いに寄り添い溶かすため。



たさもじない



「いいか、死ぬんじゃねえぞ」
 目を合わせず横を向いて、陽良あきらは低い声で呟いた。黒装束の者達は皆、静かに頭を垂れる。春花はるかもまた、同じく下を向いて足元を見つめた。建物全体が微かに揺れている。沈黙の中、渡り廊下の遠くの方で女達の悲鳴が警笛のように折り重なって流れてきて、雨の気配など微塵も感じない状態だった。
 鉄壁の獅子とうたわれたこの城が落ちるのも、もはや時間の問題だった。
 春花は顔を上げると、目の前に立つ陽良の横顔を見つめ返した。相変わらず厳しい表情で、これが最後かもしれないと思うと、むせるような熱い想いが胸につかえて、視界が潤んでしまうほど愛しかった。上司であり、幼なじみである彼の隣にいた時間が、すでに思い出になろうとしている。
「せめて、峠の向こうまでお連れすることが出来れば、紫乃しの姫様は助かるのですよね」
 頂いた任務を丁寧に暗唱すると、陽良は目だけ流して合わせ、相槌を打った。表情の微かな変化一つ一つが春花の心を揺らし、その気持ちを押し止めるように唇を堅く閉ざす。今までに受けた全ての指令が、思い出が、頭の中で瞬時に流れ、手のひらを見下ろして眺めると、そっと握った。
 女ではなく忍びの道を選び、この手を赤く染めてきたのも、心を冷たく凍らせて任務に没頭するだけの日々を過ごしてきたのも、全ては彼のためだった。最年少で忍び頭になった幼なじみの彼を支えるためなら、自分のために体などいらない。気持ちなどいらない。その代わりに役に立てるだけの力を望み、手に入れた。女というさがさえ、彼の前では何の意味も持たない武器だったから……。

「春花、陽良……、私はもう、どこへも行きたくありません」
 襖を開けて顔を覗かせたのは、表情に幼さを残す紫乃姫だった。淡い藤色に染められた着物の袖の先を指先に乗せて涙を拭い、覚束ない足取りで陽良に寄り、抱きついた。腰まで伸びた長い黒髪が川面のように艶やかに揺れて輝く。雪に劣らぬ色の白さ、小柄で華奢なつくり、触れたら折れてしまいそうな様相の紫乃は、紫陽花あじさいの君として美貌を称えられ、各国の男を虜にした。強大な軍事力と土地の支配を広げ続ける敵国の主が、権力をかざして女を欲しがるのはいつの時代も変わらない。美人が国や城を傾け滅ぼすというどこかの国の言葉も、ついにこの国で起きてしまった。
 紫乃は、泣き声のため微かに言葉を曇らせて、陽良の胸にすがりついた。
「離れ離れは、もう嫌なの」
 春花はまつ毛を伏せて視線を落とした。紫乃の言葉が皆へ向けられたものではないことは、その場の誰もが察していた。紫乃の想い人は、同じ日に生まれ、同じ時を歩んできた若き忍び頭の陽良だ。殿もその事を察していたからこそ、陽良に紫乃を託した。
 力では敵わない、初めから負けいくさならば、せめて相手の望みだけは断ち切ってやろうと、高らかに笑って言い残した先刻の殿の姿が、最期になった。

「時間だ、連れていけ」
 陽良は紫乃の肩に手を置き離すと、紫乃は猶も取りすがろうとする。顔はさらに涙でぐしゃぐしゃに濡れて頬の辺りが光っていた。
「この雨にも関わらず、休戦もなしに攻め入ってくる。どれだけ向こうが焦っているか、必死なのか、お前も分かるだろ」
「なら陽良も、私と一緒に来て」
 見上げる瞳から零れ落ちる雫は、春の雪どけに似ていた。しかし、陽良はさらに険しい顔をして「ふざけんな」と一喝する。紫乃はひるんで瞳を揺らし、春花の方を向いた。
「春花も、何とか言って。ねえ、お願い。私、皆がいなくなるのは嫌よ。ならば私も、皆と一緒に……」
 潤んだ瞳と嗄れた声が春花に向けられるが、春花は静かに首を左右に振った。紫乃を死なせたくないのは春花も同じだった。誰よりも愛らしく、誰よりも美しい、そして誰よりも優しい。だからこそ、家臣は皆、自らの命を懸けて今もこの城で戦っている。紫乃が少しでも遠くへ逃げられるように、時間を稼いでいる。
「紫乃、お前を死なすわけにはいかねえんだ、そのためにどれだけの者が血流してんのか、そのくらい察しろ」
 陽良は顎先で「連れてけ」と合図をし、部下二人が紫乃の腕を捕らえて部屋の奥へと連れて行く。泣きじゃくる紫乃の声は女の春花でもひかれてしまうほど頼りなげに弱々しく、紫乃がいなくなった後も、春花は陽良の顔をすぐに振り返って見ることができなかった。冷たく突き放さなくてはならない陽良の立場を感じて、春花は胸がちくりと痛んだ。

「……では、行って参ります」
 平生の任務の時のように素っ気ない形通りの言葉が、喉を重々しく抜けていった。最後の任務は紫乃を隣国へ逃す手助けをすること。言いたい言葉が山ほどあっても、全てこの場に相応しくないもののような気がして胸につかえた。
「春花、紫乃を頼む。あいつはお前がいないとダメだ、昔から」
 春花は答える代わりに口元を微かに引き上げた。返す言葉を心に止める。紫乃が傍に居て欲しいと思うのは、昔から陽良一人だけだ。陽良にも、それが分かっているはずだ。せめて立場が代われるものならば、今すぐにでも陽良を紫乃のもとへ行かせてあげたかった。どうせちる体ならば、幼なじみ二人の幸せを叶えてあげたい。それは、いつからか春花の心に宿っていた嫉妬よりも強い、使命に似た感情だった。
 春花は一つに結っていた髪のひもを引き抜いた。黒髪がさらさらと肩へ零れ落ちる。そして、陽良の手を取ると、紐を手首に巻いて結んだ。赤い組紐が鮮やかに映える。
「知ってますか。主従は三世のえにしだそうですよ。来世もその次の来世も、上司は部下の面倒を見なくてはならないんですって」
 だから、紫乃と陽良はまた会えると、遠まわしに伝えようとした。
「知ってる。つーか、こんな時くらい、敬語使うな。もう誰も聞いてねえ」
「う、うん、分かった。陽良……あきちゃん」
 口から紡ぎだされた名前が頭の中に響き渡って、懐かしさに胸が苦しくなった。遠い過去の記憶が蘇る。陽良の隣に居る事に何のためらいも感じなかった幼い頃。
 春花は震えだす唇を強く引き結び噛んだ。微かにびた味がする。死なないで、と心の中で何度も願う。けれど、それが立場上、無意味な言葉であることも分かっている。立場もしがらみも身分ない、ただの幼馴染と呼べたあの幼き頃に戻れたら……。そんな想いを奥歯で噛み締めた。
「死んだら何も覚えてねえだろ」
「でも、きっとまた会えるからね。私は会いたいよ、あきちゃんにも、紫乃にも」
 声が震えないのは、忍びとしての訓練の賜物たまものだと、この時ばかりはありがたく思った。悲しくても、嫌でも、辛くても、感情を殺す仮面を被るのが忍びとしての常だった。

「春花」
 名前を呼ばれて顔を上げると、陽良がぼそりと呟いた。
「今だけ、お前の上司やめていいか」
 言葉の真意が読めず見つめ返すと、グレーの瞳がじっと春花に向けられていた。大好きな陽良の瞳だった。春花は静かに頷くと、陽良の表情が微かに和らいだように見えた。
「本当は、言うつもりなかったが……あんま後悔もしたくねえからな」
 陽良は一呼吸おいて、言葉を続けた。
「あの時、紫乃と三人で紫陽花を山に見に行った時。……お前が言った言葉、本当はちゃんと聞こえてた」
 春花は目を見開いた。驚きのあまり、息だけが微かに漏れるものの言葉にならない。次第に、奥にしまわれていた記憶が脳裏に蘇った。
 二年前の梅雨、非番が重なった春花と陽良は、紫乃の願いで山へ紫陽花を見に行った。移り気な君、その花言葉の通り色を変える紫陽花は、淡く、濃く、どれとして同じ色はなかった。雨に濡れた一面の紫陽花が幻想的に野に広がり、城の中に居てばかりの紫乃は嬉しそうに笑って、着物の裾が汚れるのも気にせずに歩き、眺め続けた。
 その様子を陽良と二人で眺めていた時、心の中で呟いた「好き」が思いがけず口先から零れてしまった。紫乃を見つめる陽良の目があまりにも優しく笑うから、春花はどうしても耐え切れなかった。姫に敵わないことは分かっている。それでも、もう幼なじみの三人ではいられなくなってしまったことに、紫乃と陽良が自分を置いて遠くへ行ってしまうような気がして怖かった。しかし、陽良の耳には届かなかったらしく、もう二度と口にはしないと誓った言葉だった。
「あ、あれは……」
「聞こえないふりをしたのは、俺が、お前の上司だから……だ」
 陽良は自嘲気味に小さく息をついた。
「今となっては、関係ねえしがらみだな」
 切なく眉を寄せて笑う陽良の顔を見て、春花は頭の奥で何かが切れてしまったような音の響きを感じた。もう、だめだと思った。苦しすぎて心を抑える事ができそうにない。
「あきちゃ、あきちゃん……わたし、私ね」
 言葉が上手く喉を通らない。抑えていた気持ちが一気に溢れ出した。陽良はそっと手を伸ばすと、春花の頬を指先で拭った。
「おい、泣いてんじゃねえぞ、忍びだろ」
 春花は何度も頷いて、喉の奥に力を込めた。唇を噛み締めなければ、今にも嗚咽が漏れてしまう。陽良は春花の肩を抱き、引き寄せると、耳元でそっと呟いた。
「縁とか生まれ変わりとか、よく分からねえけどな。最期に一緒にいられないのは、たぶん、それが最後じゃないからだ」
 陽良の温もりが装束を通して優しく伝わってくる。じわじわと滲み出てくる体温を、もう二度と離したくないと強く思うと、呼吸さえも苦しくなった。
「ねえ、今度会ったら伝えたい事があるから、あきちゃん、ちゃんと聞いてくれる?」
「ああ。けど、俺の方が先に言うかもしれねえけどな」
 春花は陽良の胸に手を置き、身を引くと、震える口元を強く引き上げた。涙が邪魔をして陽良の姿が揺らぐ。それでも、精一杯笑って言った。
「また、ね。あきちゃん」
「……お前もな」
 襖が閉まると同時に、気配までも断たれたように感じ、春花は心がすくんだ。振り切るように身を翻して懸命に走る。数分走れば先を行く紫乃に追いつけるだろうと頭を任務へと切り替えようとした。必死に、必死に、理性を強制するほど崩れていく。大好きな陽良の顔が次々と頭の中に溢れていった。
 手を繋いだ幼き日々、ケンカをした日、訓練を共に受けた日、怪我をした日、食事をした日、一緒に寝た日。
 春花は目を強く瞑った。好きだった。大好きだった。最期まで傍に居たかった。引き返したい気持ちを殺して、降り注ぐ雨を切って走り続けた。
 もはや雨の冷たさも感じない。足だけが勝手に走っている。陽良がいなければ、この体も死んだと同じだ。冷えて凍ってしまう。
 ふいに、行く手に黒い影が迫った。先回りをされたと分かり、辺りに紫乃の気配がないことを咄嗟に確認して、無事に先へ逃げたのだと安堵する。
 足を止め、息を殺す。頬を伝う雫は雨か涙かも分からずに、春花は懐に隠していた短刀を取り出し、引き抜いた。
 やがて、傍の庭に咲いた青い紫陽花が、飛び散った雫で赤く、そして紫色に染められた。








「お前、駅前つっただろーが」
 透明のビニール傘の陰から、陸斗りくとが顔を覗かせた。眉を寄せて不機嫌に口をへの字に結んでいる。傘の背後には、公園に植えられた色とりどりの紫陽花が咲き乱れていた。グレーの瞳が理津りづを睨むので、理津はふんと横を向いた。
「違うもん、やっぱり公園にしよって言ったじゃない。陸ちゃんがいい加減に聞いてるからいけないんだもん」
 陸ちゃんのせいでびしょびしょなんだから、と理津は唇を尖らせた。突然の大雨で雨宿りをする所も近くになく、数分走り回ってようやく見つけた小屋に駆け込んだものの、買ったばかりのワンピースはびしょ濡れで、ミュールに滑らせた足先も泥だらけになってしまった。
 髪もぐっしょりと濡れ、毛先から落ちる水滴が今も肩へ落ちて胸元へと流れ込む。
「せっかく、可愛くしようって、思ったのに……」
 いつも一緒にいる幼なじみだからこそ、今日は精一杯おしゃれをしていつもと違う自分を演出し、陸斗を惚れ直させようと考えていた。しかし、理津の企みは、午後から振り出した大雨に打ち砕かれた。おまけに、約束したはずの陸斗は待ち合わせの場所を間違えて一向に来ない。理津は心までブルーに濡れて、ベンチに座ったまま俯いた。
「寒いし、独りぼっちだし、陸ちゃん来ないし」
 理津がぽつりと呟くと、急に腕を掴まれた。驚いて顔を上げると、すでに陸斗は背中を向けて歩き出そうとしている。
「や、ちょ、どこ行くの。私、濡れちゃってるのに。寒いー、冷たいー、陸ちゃんのせいだー」
 無愛想な陸斗の態度が悲しくなって駄々をこねると、陸斗が足を止めた。
「だから、行くんだろ」
「え……」
 首を傾げる理津に、陸斗は背中を向けたまま言った。
「温めてやるよ、責任持って、俺が、な」
 口ごもった理津に向かって、顔だけ向けた陸斗の表情は、にやりと悪戯に笑っていた。

 雨がしとしとと降り続ける中、傍に咲いた紫陽花の花が、肩を寄せる二人の姿を、ただ静かに見守っていた。





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