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 恋した時点で負け勝負。
 けれど、見破られるのは悔しいから。
 気付かない君に、俺の気持ちは教えてやらない。



1%



「わあ、これ良さそうだよ〜。ねえねえ」
 ふりかけパックよりはひと回り大きい、四角いパッケージの袋を手にして、もう片方の手で水海みなみしんの制服の袖を引っ張った。
「あー? どれどれ」
 慎はやや面倒くさそうに目を細めて、薄いピンク色のパッケージを覗き込んだ。店内にいる客の九割を女の子が占めている雑貨屋は、駅の構内に位置しているせいか、先ほどから人通りが忙しない。今も慎の後ろを女子大生がぶつかりながら通り抜けて行った。狭い店内は透明感が溢れる雰囲気の作りとなっていて、男が長居するほど居心地の良い場所ではない。
 袋には、「とろけるムースバス・スイートローズの香り」と丸文字で書かれた商品名と、赤い薔薇のイラストがプリントされている。最近になって入浴剤に凝り始めた水海に引き連れられて、度々この店に来るようになった。入浴剤が豊富にあるらしい。
 水海は別の指を器用に使い、もう一袋摘まむと重ねて隣に並べ、慎を見上げてにこりと笑った。ふにゃりと柔らかい物が崩れるような笑い方には、何度もやられてしまう。
 慎は緩んだ手のひらをそっと握り締めた。触りたいと思っても、悔しいことに、気持ちに任せて触れられる身分ではない。最近になって、ようやく触れてくれるようになった水海を警戒させるような事をしてしまっては、全てが水の泡になってしまう。
「バニラとローズ、どっちがいいかな」
 新発売なんだよー、と嬉しそうに目元を緩ませる水海の横顔を、慎は静かに見下ろした。白くて柔らかそうな頬がほんのりピンク色に染まっている。マシュマロみたいで不可思議な生き物だと思った。けれど、そう思うのは初めだけ。一度触れてしまうと、もうダメだ。見ているだけで、おかしな方向に意識が飛びそうになる。単に年頃のせいかもしれないが……。
「慎、ちゃんと考えてる?」
 水海の呼びかけに曖昧な返事をして、慎は真剣にパッケージを見入った。はっきり言ってどっちでもいいとは言えないが、答えなければ彼女が機嫌を損ねる。怒った顔も好きだけど、と少し意地悪な事を考えながら言葉を返した。
「どうせなら、さ……」
 慎は腰を少し屈めて、見栄えのする赤いパッケージを手にすると、水海の手のひらに乗せた。
「ゲルマバス?」
「そ。これ、痩せるって」
「それ、太ってるって言いたいの」
「んー……」
 わざと考えるフリをすると、水海が腕を叩いた。上目遣いでちらりと睨んでくる。ああ、やっぱり可愛い、と慎は口元を緩ませると、水海の髪をくしゃくしゃと撫でた。細い髪が柔らかく指先をくすぐって心地よい。
「うーそ。どうせなら何か効果があった方がいいってこと」
 ぶー、と効果音が付きそうなほど不機嫌に口先を尖らせて、水海は「レジ行ってくる」と慎の後ろをすり抜けて行った。赤いパッケージの入浴剤が戻されていないことに気付いて、慎は会計をしている水海の後姿を見てそっと笑った。
 手が届きそうで届かない。自分の気持ちを彼女に気付かれたら、男だと意識されたら、おそらく彼女は口も聞いてくれなくなる。


「あ、草羽くさばねじゃん」
 名前を呼ばれて店の外を見ると、クラスメイトの男女五、六人が立ち止まりこちらを窺っていた。名前を呼んだ太めの男が、挨拶代わりに手を上げる。その隣にいた女が好奇の目を向けて茶化すように言った。
「何してんのー。慎ってば、ここ女の子の店だよ。もしかして、そんな趣味あり?」
「じゃなくて、デート」
「は? だってお前、彼女いねーじゃん」
「あー、そーだっけ?」
 とぼけた声を上げると、背中に柔らかい衝撃を感じた。顔を向けると、戻ってきた水海が背後に寄り添い、顔を覗かせていた。
「あ、こんにちは」
 水海が軽く頭を下げたが、クラスメイト達は目を丸く開いたまま、言葉を出さない。太めの男の表情には微かに悲哀が浮かんでいた。
「え、え、え……」
 慎と水海を交互に見ては、間の抜けた声が飛び出すばかりだ。見ている方が哀れになるくらい、あからさまな動揺だった。そうか、こいつもか、と慎はそっとため息を落とした。
「彼……女?」
 水海を指差して問うクラスメイトに、慎は答えることなく水海を見た。水海は慎の腕に自分の腕を絡めると、ためらいもなく体を寄せた。
「実は、草羽くんと付き合ってるんです」
 にこりと笑った笑顔とは反対に、男の顔はますます怯んだ。お気の毒様、そう心の中で同情すると、慎は水海の表情をそっと窺った。人の良さそうな顔を浮かべて恥らっているが、口から飛び出した言葉は真っ赤な嘘だ。
 確かに、付き合っている。しかし、正確には、慎が水海に付き合っていると言った方がいい。水海には1%も、自分に対する恋心などない。慎を男と見ていないから、傍にいてくれる。あの時、第一発見者が自分ではなかったら、水海は自分のことなど目にも留めなかっただろう。そう思うと、心の中が細い針で刺されたようにちくりと痛んだ。

 あの日、出会ったのは駅の公衆トイレだった。広い駅には三箇所の公衆トイレが設置されていて、一番外れにあるトイレには滅多に人など来ない。慎が入ったのも全くの偶然だった。
 トイレに入る瞬間、呻くような苦しげな声と男の声が聞こえて、目に飛び込んできた光景に言葉を失った。初めにトイレを間違えたかと思ったが、暢気なことを考えている状況じゃないことを次第に察して、頭が覚めていった。
 両手を上に拘束されて、口を手のひらで強く押さえつけられている女の子。相手は他校の制服を着た同い年くらいの男だった。
『……何、やってんだよ、お前』
 驚きが強いせいで、言葉に大した威力はなかった。随分浮ついた声だったが少しは効果があったようで、男はまずいと思ったのか、「くそっ」と低い声で呟いて舌打ちをすると慌てて慎の横を擦り抜けて走り去っていった。掴まえようと思った時にはもう遅く、後から冷静に考えてみれば、相手が何の凶器も持っていなくて良かったと心の底から思った。
 警察を呼ばなくてはと頭をよぎったが、目の前で涙をこぼしている女の子の横顔を見たら、一歩も足が動かなかった。どこかで見た顔だと思いながら、機能のしない頭を必死に巡らせて、少し視界を広げれば同じ学校の制服で、ようやく彼女の正体を察した。
 相庭あいば水海。才色兼備で、確か家はそこそこ有名な呉服屋で大切な跡取り娘だと噂に聞いた事を思い出す。結構、男子の間で騒がれている同学年の女の子だった。
 慎は傍に投げ捨てられている鞄を拾うと、手で軽く汚れをはたいて渡そうとしたが、水海がふいに顔を上げたので動きを止めた。水海は慎を瞳に写すと、見開いた目を大きく揺らした。大粒の涙が次々と頬に流れていく。噛み締めた唇が切れそうなほど強く、慎は言葉を飲み込んだ。不謹慎にも、その泣き顔で心臓が揺れたのが分かった。
 「えーと……」
 かける言葉も見つからず、立ち尽くす慎の胸に、水海が泣きながら抱きついてきたのは、それから間もなくの事だった。
 お互い、話したことさえなかった。それでも、着ている制服が同じという親近感が、水海の張り詰めた心を溶かしたのだと、慎は泣きじゃくる背中をそっと撫でながら思っていた。

『ねえ、草羽くん、私の彼氏になってくれないかな。もちろん、嘘でいいの。フリだけでいいから。一人だと怖くて……』
 そんな契約を持ち出されたのは、それから三日後のことだった。彼氏じゃなく、彼氏役。喜んだのも束の間で、それがどんなに空しいものであるか、すぐに思い知った。
 いい意味で安全な男。悪い意味で、初めから、恋愛対象外ということだ。


「えーと、じゃ、そーゆーことだからさ。またな」
 慎は早くこの場を去ろうと水海の手を取り歩き出した。クラスメイト達が呆然としている隙に逃げるが勝ちだ。人通りの多い駅はすぐに二人を霞ませてくれる。明日の尋問は免れそうにないが、それまでに十分な言い訳を考えればいい。慎は立ち止まり振り返ると、水海を見て言った。
「かーわいそー。あいつ、絶対お前に気があったと思うけど」
「いいの。そのために慎がいるんでしょ。ね」
 小さく笑う水海を見て、心が甘く締められる。綿毛のように柔らかに笑う彼女を愛しいと思っても、傍に居る以上、可能性は薄い。伝わる手の温もりに胸が苦しくなった。今、こうして繋いでいる手の指先から、1%でもいいから気持ちが伝わればいいのにと思う。
 心の動揺を隠すように、慎は言葉を続けた。
「彼氏役なんて、引き受けるんじゃなかった」
「何でも、協力してくれるって言ったじゃない」
 水海はすぐに言葉を返してきたが、動揺している事は表情が物語っていた。慎は気付かないフリをして、冗談交じりに言った。
「言った。でも、見返りくらい欲しいよなー」
「分かってるもん、そんなこと」
「じゃあ、キスしていい?」
「え……」
 水海の表情が硬くなった。冗談に任せて発した言葉が急に重みを含んで胸に詰まる。慎は振り切るようにため息にも似た笑いを浮かべた。
「冗談だよ。そんな簡単に、治るわけないか。男性きょーふしょー」
 それは、いつの間にか自分の心を慰める良い言い訳になっていた。仕方ない。傷つけられれば誰でも臆病になる。癒えることなど、すぐには無理だ。
 こうして傍に居られるだけマシだと思い、慎は水海の頭をぽんと叩いた。
「ほら、帰るんだろー。家まで送るから」
 慎は再び手を引いて歩き出そうとしたが、水海はその場に足を止めたまま俯きがちに立っている。不思議に思って、窺おうと顔を寄せると、顔を上げた水海に胸元を強く掴まれた。戸惑う声を上げたのも束の間、そのまま下に引き寄せられる。しかし、それ以上の言葉は奪われた。

 何が起きているのか、状況がすぐには掴めなかった。唇に触れる柔らかい感触がそっと離れていくまで、時間が止まっているような気さえした。想定外のことに、人はどこまでも弱いらしい。
「え……」
 喉に言葉を詰まらせたまま、離れていく水海の顔をぼんやりと見る。
「慎……はね、大丈夫になったかも」
 顔を隠すようにそむけて、水海がぼそりと呟いた。艶やかに潤んだ唇のグロスが、少し乱れている。微かに薄いピンク色の口元が花びらみたいに淡く、うっすらと開いている。
 慎は口元を押さえそうになった手を無理に止め、溢れ出す気持ちを胸にしまうと、にやりと笑った。
「ああ、俺に惚れちゃったんだ、水海ちゃん」
 上擦った声に気付かれないよう茶化すと、鞄が胸にどかっと飛んできた。全く容赦ない。慌てて受け止めると、慎は肩を抱いて水海を抱きしめた。想像してた通りの心地よい柔らかさに、心の中が満ちていく。
「じゃあ、本格的にさ、不純異性交遊、しちゃおっか」
「やだ、言い方がやらしー」
「ん、だからそーゆーこと。俺、結構ガマンした方だと思うけどなー。水海ちゃん、無防備だから」
 腕の中でもがく水海に、慎は笑いながらマシュマロの頬にキスを落とした。





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