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 冬ならば、どうか、二人を凍らせて。
 確かにあったあの日の想いが、春になっても薄れないように。



それでも好き



 目の前の扉が突然開いたので、依緒いおはすっかり逃げ遅れてしまった。目がしっかりと合ってしまったため、通りすがりを装うこともできずに強張った面持ちで立ち尽くす。緊張からか、板でも添えた様に背筋が真っ直ぐに伸びてしまった。
 目の前に立つ女の人は、やや目を見開いている。
「あ、あの」
 瞳をしばたいて声を上げると、ドアノブに手をかけたままの女の人は目尻を柔らかく緩めた。目元と口元に微かな皺が浮かぶ。背は依緒と変わらず、華奢でどこか儚く、ほんのり温かい印象の、まるで淡いかすみ草のような女の人だった。低い位置で後ろに一本にまとめられた髪のおくれ毛が一筋耳にかかっている。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
 遅れてお辞儀をすると、女の人は玄関から一歩前へ出て、ドアを支えたまま脇へ退いた。玄関から奥へと真っ直ぐに廊下が伸びていて、少し先に仕切りのドアがある。その奥がリビングになっている間取りだ。
「どうぞ。陽介ようすけなら、部屋にいるから」
 見とれてしまうほど、優しい笑顔だった。依緒は遠慮して、渡すつもりで持ってきた紙袋を差し出そうとすると、そっと手のひらを添えられ制された。
「いいのよ、遠慮しないで。私はこれから病院に行かないといけないから。あの子に会ってあげてね。もう、熱も下がってるから」
「あの、でも」
 会うつもりなど初めからなく、中へと勧められても依緒は足を前へ出すことをためらった。約束をしたわけでもなく、突然家までおしかけて陽介に迷惑そうな顔をされたくなくてインターホンを鳴らす事もしばらくできずにいたのだ。しかし、初めて会う陽介の母は依緒を温かく出迎えてくれ、断ることもためらわれる。
「じゃあ、お願いね」
 陽介の母はドアを支えていた手を外すと、鍵もかけずにアパートの外廊下を歩き出した。背中にかけた声は、ドアの閉まる大きな音にかき消されてしまい、階段を降りていく靴の音が響き、遠ざかっていった。
 半ば強引に留守を任され、依緒はほうけたのも束の間、戸惑う指先をやがてドアノブへと添えた。

 アパートは部屋数も限られており、陽介の部屋も簡単に見つけることが出来た。リビングには茶色の丸いテーブルが置かれ、白いレースの布が敷かれた上に黄色いストックの花が生けてあった。見渡すと左右にはそれぞれ一つドアがあり、右手にある部屋はドアが開いていて鏡台が見えた。おそらく先程会った陽介の母親の部屋だと察して、依緒は左手のドアの前まで来るとノックする手を胸の前まで上げたが、またそっと下ろした。
 おしかけるようなことは、陽介の性格上、快いものではないと分かっていた。それでも、三日も風邪で学校を休んでいると聞いて、心配だった。陽介からは何の連絡もなく、弱っている時には会いたくないのも当然だと思うものの、自分の存在など必要とされていないようで悲しかった。嫌われたらどうしよう。けれど、初めから、自分のことなど好きでも嫌いでもないのかもしれない。 様々な憶測が浮かんでは流れていったが、依緒は深く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出してドアの表面を二回叩いた。
 硬い音が二回響いた後、ドアの向こうからよく知った声が流れて耳元を掠めた。


「……どうして、分かったの、私だって」
 部屋に入ると陽介は起きていて、依緒がドアを開けるとすぐ目の前に立っていた。髪の毛が少しうねっているのは寝癖なのか、陽介はだるそうに頭を掻きながら依緒を出迎えた。
「つーか、会話、聞こえてたから。うち、狭いんで」
 依緒は納得するように頷くと、首を少し傾けて部屋の奥をのぞいた。ベッドの脇の床にはポカリスエットのペットボトルが転がっている。
「ねえ、入ってもいい?」
 ためらいがちに見上げると、目が合った陽介の瞳は相変わらずやる気がなさそうに細められていたが、やがて一息つくと黙って部屋の奥へと戻っていった。依緒は静かに後に従い、ベッドに腰掛けた陽介の隣に同じように座った。
「風邪、だいぶ良くなったみたいだね。顔色もそんなに悪くないし」
 依緒は口元を緩めて笑うと、前を向いて部屋の中を視線で追った。物は少ないが、きちんと整頓されていないせいか少し乱雑に見える。本やノート、辞書などが机の上にまばらに並んであり、モスグリーンの制服のネクタイが机の椅子に垂れ下がって掛かっていた。
「陽介、何型だっけ」
「……AB」
 ああ、と依緒が感嘆の声を上げると、陽介がいぶかし気に眉を微かに寄せて聞き返した。
「だって、A型には見えないもんね。それに、もう少し綺麗な部屋を想像してたから。ああ、別にね、汚いってわけじゃなくて……」
「帰れ」
 一喝した陽介に依緒は小さく笑った。少なくとも、家に来る前の不安はすこしずつ溶け出して流れ始めていた。
「突然、家に来ちゃってごめんね。本当はお邪魔するつもりなんてなかったんだけど……」
 依緒は一拍おいて目線を落とすと、膝の上に置いた赤い小さな紙袋に両手を添えた。袋の口から透明なビニールの袋の先とピンク色のリボンがのぞいている。昨日、学校から帰った後で、キッチンに居座り続けて作った物。
 会話が途切れ、隣に座ったまま動かずにいる二人の中を、沈黙を破るように電子音が鳴り響いた。顔を上げると、机の上で携帯電話のサブディスプレイが光っていた。
「メール?」
「……かもな」
 陽介は素っ気なく答え、取りに立つ気配がない。代わりに依緒が立とうとすると、腕を掴まれ止められた。
「いいよ、どうせ学校のヤツだろうし」
「でも、陽介のこと心配してるんじゃないの」
 問いかけに、陽介がすぐに答える事はなかった。数秒の沈黙を要した後、陽介の口からそっと言葉が漏れた。
「表面だけの心配は、いい迷惑だろ」
 ひどく無機質な声色が依緒の耳の中を通り抜けて行った。視線をそっと上げる。変わらない陽介の横顔がなぜか切なく見えた。
 時々、こんな風に彼の周りを囲ってしまう壁が依緒を遠ざける。透けているようで厚いベールの向こうに、少しでも入れたらといいのにと、陽介と接する度に思った。
 しかし、半年という時間の短さがいけないのか、それとも自分の価値など彼にとっては暇つぶしに過ぎないのか、真剣に思いを込めた言葉も、気持ちも、安く見下げられてしまうようで胸に鋭い痛みが走る。
「……ごめんね、私、今日気付いたの。陽介のクラスの人に、休みだって聞いて」
「いいよ、別に。もう治ったから。明日から学校行くし、うつるからもう帰ったほうがいいんじゃん」
「あ、うん。そうだね、ごめん……」
 依緒は指先にそっと力を込めた。赤い紙袋が微かに歪む。好きだから、辛い。冷たく浴びせられる言葉の数々が心を刺す。けれど、何度鈍い痛みを感じても、何度突き放されようとも、また陽介と接することで傷が癒えていく。傍に居ることは、その繰り返しだ。愛しさと痛み、無限のループの中をいくらさ迷っても、それでも好きだから離れたくないのだ。
「これね、お見舞い」
 依緒は陽介の胸に押し付けるように紙袋を渡した。
「顔がね、見たかったの。元気かなって。ただ、それだけなの。迷惑かけてごめんね。明日、学校で会えるの、楽しみにしてるから」
 陽介の顔を見る勇気がなくて、笑うことで視界を細めた。定まらない視点が少しずつ霧がかって霞んでいく。
 「一応、今日、バレンタインだからチョコレート。休んでいた分、明日、他の女の子からもいっぱいもらうかもね」と明るい口調で付け加えると、依緒は鞄を持って立ち上がった。

「依緒」
 部屋を出ようとした依緒の背中に、陽介の言葉が当たる。辛い気持ちを隠して振り返ると、ベッドに座ったままの陽介の手には、透明の袋にピンクのリボンでラッピングされたクッキーが乗っていた。
「ラッピングのリボン、曲がってるけど」
「そんな。だって何回も結び直して、ようやくできたと思ったのにー」
 依緒はまた歩み寄ると、陽介の手から取って隣に座り、リボンを引き緩めた。練習の末、チョコチップクッキーは上手く出来たと自負している。味見もちゃんとした。しかし、肝心な見た目のラッピングが駄目では美味しさも半減してしまう。
 依緒は慎重にリボンを絡めたが、綺麗に左右に結べず、上下に曲がってしまった。
「不器用」
「ひどい。待って、今、ちゃんと結び直すから」
 リボンに触れる依緒の指を陽介の手が制した。不思議に思い、顔を上げると、声の出る間もなく唇が触れた。
 触れるだけの優しい口付けは、深くならずにすぐに離れた。
「お礼」
「え……」
 呆けた表情を変えずにいる依緒に、陽介はそっと口元を緩めた。
「……風邪、うつしていい?」
「そんなの……」
 ダメだ、と言うはずの言葉は閉ざした唇のせいで口の中にとどまった。視界がゆっくりと景色を流して、やがて背中に訪れた柔らかい衝撃と共に、白い天井に行き着く。ネクタイにかかる陽介の指に手を添えて、依緒はか細く声を漏らした。
「だって、お母さんが……」
 すでに言い訳さえ間違っていることに、依緒は気づかなかった。
「さっき聞いただろ。病院行ったら夜まで戻らない」
 するするとネクタイが抜けていく掠れた音を聞きながら、依緒の視界は心ごと甘い闇の中に堕ちた。
「好きだから」
 耳元で囁かれた愛しい声が、静かに心を満たしていった。


 冬ならば、すべて凍らせて。
 時間も、場所も、心さえも。
 春になってしまったら、重なったと思った想いさえ、すべて溶けて流れてしまうから。





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