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 もう戻れない。
 けれど、そんな方法、初めからいらない。



スキを見せたら奪うから



『えー、本日は大雪のため、午後は休校とする。速やかに帰宅するように』
 校長のしわがれた声がスピーカーから流れて、生徒達がわっと席から立ち上がった。鞄を持ち、はしゃぎながら友人のもとへ寄って行くのを、教卓から担任が戒める。真っ直ぐ家に帰る者などいなのは明白で、カラオケ行くだの、臨時合コンだのと、弾んだ声が聞こえてきた。授業が潰れた上に明日も休日となれば、浮かれるのも無理もない。
「おう、高瀬たかせ、お前も行くだろ」
 肩を叩かれ顔を上げると、草羽くさばねがにやりと笑ってそのまま肩に腕を回し、顔を近づけた。
「この間カラオケ行ったK女の子がさ〜、お前に話あるんだってさ。やるねー、雛村ひなむら高瀬くん」
 耳元で下世話に囁く草羽を横目で一瞥すると、高瀬は腕を振り解いて鞄を手にした。草羽が慌てた様子で背中に声をかけるのを、振り返って制す。
「悪いけど、俺、そいつにキョーミない」
「いいんだよ、あっちがあるんだから。来いよ、な、高瀬〜」
 草羽は高瀬の肩をぽんと叩いて、そのまま掴んで行かせまいとする。しかし、一向に首を縦に振らない高瀬に、気の良い笑顔は次第に緩み、落ちていった。
 やがて、草羽は視線を床に落とすと声のトーンを弱めた。
「なあ、高瀬。こうしてお前を誘う俺、……間違ってないだろ。どうしちゃったんだよ、最近お前……」
 意味深に囁く草羽の声は、力を失い、灰色に染まっていた。同情と憐れみと、憂え。何を言ったわけでもないが、草羽はきっと全てを理解しているのだと思った。高瀬の気を、何とか別の方向へ逸らそうとしているのが分かる。しかし、そう思ったところで、友人のそんな努力も全て無駄だと思ってしまう自分が一番最低だ。
 高瀬は静かに首を振った。
「ごめん……」
 草羽の顔が苦く歪むのを見ることに耐えられず、高瀬は視線を横へ流した。
 天候がひどくなる前の、それは一時間前の出来事だった。


 昇降口はすっかり静けさを極め、水の奥底に揺らいでいるような感覚がする。高瀬は傘立ての上に座り、時折廊下の方を見ては俯いた。外は一面に雪のじゅうたんが敷かれ、横風が昇降口のガラス戸に当たって唸っている。この寒さの中では、教師も温かい職員室から出ることがためらわれるのか、先ほどから誰も通らない。まして、生徒は皆すでに帰ってしまっただろう。高瀬と、残り数人を除いたならば。
 空っぽの学校は、口を開けた巨大な洞窟のようだった。
 硝子がひび割れる様な寒さに、高瀬は白い息を吐き出し天井を仰いだ。寒さで指先が微かに痛む。
 待ち合わせなど約束した覚えはなかった。けれど、例え一時間でも二時間でも、待っていられる自信があった。そんな自分を不毛だと思う事さえ、今はない。

雛村ひなむら……くん」
 透き通るような声が流れてきて、高瀬はゆっくり顔を上げると、期待した通りの人物が立っていた。淡い水色のマフラーを巻き、紺色のピーコートに身を包んだ市香いちこは、高瀬の姿を見て瞳を揺らし、表情が目に見えて怯んでいた。制服のスカートから伸びた白い足がやや寒そうに見える。
「今日は、随分早いんだな」
「大雪だから……会長がもう帰ろうって」
 市香は消え入りそうな声で答えると、視線を外して必要以上の言葉を言わなかった。気まずい沈黙が二人の距離をはばんでいる。生徒会の書記をしている市香は、いつも帰りが遅かった。平等な世の中とはいえ、学校の中にも小さな身分制度というものは自然と生まれていて、何の関わりもなければクラスさえ一緒になったことのない高瀬と市香は話す事もない関係だっただろう。例え一緒にいるところを見られたとしても、好奇の目を向けられるだけだ。
「そっか。梨野なしの、電車?」
「う、うん。でも、さっき先生が、今は電車止まってるって教えてくれて」
 高瀬は再び外に目を遣った。地面に積もった雪が早くも厚みを増している。果たして降り止むのか、一向に先の見えない景色だった。一面の白い景色は、どこか陰を帯びていてぼんやりと暗い。このまま、自分も市香も全てを白い闇の中に閉じ込めてしまえたら良いのにと、嫌な考えが胸をよぎった。
「生徒会の、他のやつらは?」
「電車が再開するまで、生徒会室で待機してる。もしかしたら、先生が車で送ってくれるかも、って」
「……梨野は、いいんだ」
「う、うん……」
 歯切れ悪く言葉を濁して相変わらず目を合わさない市香を、高瀬はじっと見つめ返す。どう言い訳をしたかは知らないが、帰り支度をして一人で昇降口へとやって来た理由を、高瀬は知っていた。確信などなくても、自惚れでもない。そうやってスキを見せるから、自分に対する「好き」を見せるから、どうしても手離せない。けれど、手離すつもりもない。
「梨野」
 高瀬は立ち上がると、彼女を引き寄せ抱きしめた。ほのかなシャンプーの香りに安心する。首に巻かれたマフラーも、肌を遮るコートも邪魔だと思う。それでも市香の感触が心を落ち着かせる。かじかんだ指先はすでに感覚を失っているが、高瀬は強く抱きしめた。滑る髪も、柔らかな肌も、唇も、全て誰にも渡さない。髪の間から白い耳が覗いているのをとらえてそっと唇を寄せると、市香の体が微かに震えた。
「ひ、雛村く……」
「呼ぶなよ、苗字で。あいつと同じになる」
 体を離して正面に直ると、市香の瞳は黒く揺らいでいた。彼女が誰を思い出したのか、高瀬には分かっている。その瞳の奥に浮かんでいる人物は、目の前にいる自分じゃない。自分と似ている部分を持っていても、性格も能力もまるで違う男……。市香が微かに唇を動かしそうとしたところを高瀬は唇を寄せて塞いだ。
 寒いせいか口の中が熱く感じた。絡まる舌に戸惑いを見つけ、高瀬は強引に合わせる。小さな声が漏れたところで誰も通らない廊下は密室と同じだった。制服を握る市香の手の力が徐々に抜けていくのを確かめて、高瀬は右手を下へ降ろした。足の内側を指の平で辿る。するすると滑らかで、上へ進むにつれて柔らかさと弾力が増していく。
 キスの裏で曖昧に進めようとした行為は、市香の声に制される。
「や、やだっ」
 濡れた唇を隠すように俯いて、市香は泣きそうな声で言った。高瀬の胸に当てた指先が微かに震えている。
「ここ、学校……だから」
「じゃあ、また、兄貴の部屋でする? 初めての時みたいに、さ」
 意地悪な言葉だと思った。実際に、意地悪だった。苦しんでいるのは自分だけじゃない。彼女にも同じ所まで堕ちてもらわなければ困る。一人だけ、被害者面されたら意味がない。
「そんなに嫌なら、これの理由わけ、ちゃんと説明して」
 右手の指先を目の前に出すと、市香の顔が歪んだ。口元を震わせて言葉を失う市香に、高瀬は猶も言葉を続ける。
「ねえ、どうしたら、こうなるわけ」
 市香は高瀬の指を掴むと強く握った。ぬるりと嫌な感触が二人の指先に付着する。
「嫌い、嫌い、大嫌い」
「知ってる」
「高瀬くんなんて、サイテーだよ」
「うん。けど、俺は好き」
 高瀬の言葉に、市香は口を閉ざした。俯いているため表情を窺うことが出来ない。けれど、それを確かめる勇気もない。
 これは果たして恋のなのか。しかし、執着と呼ぶのなら、胸を締める苦しみの理由が分からない。
「梨野も……嫌じゃないだろ、コッチのことは」
 俺が慣らしたんだから、そう自嘲気味に心の中で呟いた。答えなど、もう本人にさえ分からない。

『雛村くん、先輩の弟だったんだね。好きな人の弟だったなんて、全然気が付かなかったよ』

 兄の部屋で無垢に笑う市香が、頭の隅によぎった。白い雪に影を落としたのは自分だった。
 もうあの頃には戻れない。
 けれど、戻すつもりも、そんな方法、初めからいらない。





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