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内緒の関係
【secret.17 背中】




「ねえ、この坂、本気で降りるの!? だって、すっごい急だよ。自転車なんて無理だよ」
 目の前の背中を揺すって不安定な声を上げると、落ち着いた陽介の声が返ってきた。
「……バイト、誰のせいで遅れると思ってんだよ」
「だって、だって」
 言いよどんでいる間にも景色は流れ、依緒の悲鳴が寒空の中に上がった。近道とはいえ、登るにも息が切れそうな坂道を、二人分の体重を乗せた自転車で滑るなど、考えただけで足が竦む。それでも、運転手は強引にペダルを押し進めた。
 異常な速さに、依緒は目を強く閉じた。凍てついた空気を裂くように、自転車は徐々にスピードを増して下っていく。絶対に死ぬ、と真っ暗な視界の中で叫びを上げると、両腕を前へ回して陽介の背中に必死にしがみついた。置いて行かれそうになる首を固定するため、横顔をぴったりと寄せる。
 その瞬間、あんなにも黒く占めていた恐怖が、少しだけ和らいでいく。依緒は閉じていた目をそっと開けて細め、回した腕に少しだけ愛しさを感じた。まつ毛をしっとりと濡らす水は、別の意味で依緒の心を潤していた。
 寒さも、恐怖も遠のかせてしまう。冬の曇った白い空さえ、青空に見せてしまう。夢に映る思い出は、いつでも色鮮やかに、時間も未来も忘れて華やいでいた。


「行ってきまーす」
 玄関のドアに手を添えて、靴を履いたつま先をトントンと立てていると、隣に立っていた父が廊下の方に向かって声を上げた。
「和泉ー。先、車にいるぞ。早くなー」
 父は玄関のドアノブに手をかけると歩みを止め、依緒に顔を向けて微笑んだ。口元の皺が少し深くなったような気がして目を見張ると、父は「気をつけてな」と一言述べて出て行った。肉の落ちた肩がドアの向こうへと消えて行く。
 ゆっくりと締まるドアの隙間からは、風に乗って甘い香りが流れてきた。向かいの家の庭に咲き出した白い梅の花の香りだろうか。陽射しも日ごとに暖かく柔らかに色づいて、依緒は気配を感じ取るように小さく深呼吸をした。
 いつの間にか、次の季節が辺りを染め始めていた。お世話になったマフラーも今は必要ない。ドアの向こうに映し出された景色に、胸が切ない音を立てた。また冬が終わってしまう。全てを凍らせて、遠くへと持っていかれてしまうような心許なさに、心がざわめきだした。こんな風に感傷的になるのは、今朝の夢のせいだろうかと、胸に抱いた鞄を強く抱き締める。
 玄関のドアがゆっくり閉まると同時に、階段を慌しく降りる音が聞こえ、和泉が足音を立てて玄関へやって来た。どうやら遅刻癖があるらしいと知ったのは最近のことで、今朝も父に頼まれて渋々部屋に起こしに行くと、布団の中に無理矢理引きずり込まれて大変な目に遭った。寝ぼけていたならばまだしも、余裕の感じられる行為はどう考えても確信犯だった。
 依緒は手近に転がっていた枕で思い切り叩き、逃げてきたが、綺麗に整えた髪の毛は乱れ、制服はよれてしまい散々だった。娘をこんな危険な目に合わせる父親に文句を言いたいが、とても口から吐き出せる内容ではなく、飲み込んだ言葉が不満となって心をくすぶる。
 なぜか分からないが、父は和泉を信頼しているようで、年頃の娘を平気で和泉に近づける。父までも和泉の二重人格に騙されているのだろうかと考えたら、少し哀れに思えて深いため息が漏れた。どっちにしろ、ここまで人間性を隠せる和泉にはある意味で敬服する。

 忙しなく靴を履いている姿を静かに眺めていると、深めに被った帽子の中から和泉が顔を覗かせた。
「依緒も今からなんだ」
 先程の事など詫びる様子もなく、和泉は横顔を向けて笑う。その笑顔には騙されないと気を引き締め、依緒は素っ気なく返事をした。
「そう。受験の報告とか、色々あるから。それに午後は友達と遊ぶし、待ち合わせも兼ねて学校にね」
「へえ」
 流すように相槌を打ち、和泉は靴を履き終えたが、依緒の前から立ち去る気配を見せない。
「和泉は仕事でしょ。まあ、頑張って」
 不思議に思いながら、出かけるように促す言葉をかけると、和泉は「頑張れない」と表情とは似つかない台詞を述べた。
「は?」
「依緒に拒絶されたせいで、心も体も萎えたし」
「そんな、当たり前でしょ。変な言い方しないで」
 キッチンに立つ母に聞こえていないかと心配しながら、まとまらない視線を泳がせていると、和泉は依緒を挟んで壁に手を突いた。驚いて顔を強張らせれば、和泉は目の前で暢気な声で話を続ける。
「んー、やっぱり依緒の制服姿、可愛い。残念だなー、もう見れなくなるなんて。やっぱり一度くらい脱がしてみたかっ……」
「和泉ー!」
 慌てて和泉の声を打ち消すが、目の前に立つ悪魔は一向に悪びれず笑っている。それどころか囲われているせいで、息をすることさえ窮屈に感じた。心臓が徐々に騒ぎ出す。
「朝から何考えてるの。ど、どいてってば。私、怒ってるんだからね」
 刺々しく声を荒立てるが、周りに聞こえないよう弱めているせいか拒絶する言葉も頼りなく、心ごと萎縮してしまう。斜めに視線を逸らすのは負けだと思いながらも、気付けばするすると目線が下がっていった。アイドルと張り合おうなんて無理に決まっている。
「遅刻、するよ……」
「したら依緒のせいだね」
「なっ」
 反論しようと顔を上げると目が合った。それに合わせて、和泉は静かに笑う。こんな時に限って雑誌に写る時のような顔で笑うから、胸が甘く割れるような音を立てる。
 もう視線は逸らせなかった。目の前に映る顔が少しずつ視界に広がっていくのを受け止めるだけで、手も足も自分の体ではないように力の入れ方も忘れてしまう。息継ぎさえ微かに乱れていくようで、キスする前はいつも少し心許ない。
 和泉の唇がそっと触れた。それだけで、依緒は全てが溶けてしまったように錯覚する。唇に宿る熱は、明らかに自分のものだった。

「和泉、まだかー」
 ドア一枚を挟んだすぐ傍で父の声が上がり、依緒は目を見開いた。心臓が異常な音を出して早刻みに動き出し、理性が一気に押し寄せる。依緒は手のひらで口元を覆った。
 一体、朝から玄関で何ていうことをしているのか。
「すいませーん、靴履いてたんで。今行きます」
 さらりとよく通った声で言葉を返す和泉を、依緒は呆然と見上げる。キスなどなかったかのように、今朝も清々しい空気をまとった和泉は、指で依緒の髪を梳くと玄関のドアを開けた。
「じゃあ、依緒、気をつけて」
 和泉の背後から、黄色い朝の光が差し込み、向けられた笑顔を何倍にも魅力的に輝かせているように見えた。ゆっくりと去り行く背中が白く眩しい。春の陽射しが、帽子からのぞいた和泉の茶色い毛先を金色に透かしていた。
「あ……」
 思わず前に出た指先を、依緒をそっと引っ込めた。下げた腕の指先を丸めて握り締める。
 温かい背中。春の陽射しをまとう人。
 目の前から離れてしまうことがなぜか急に寂しくなって呼び止めようとした。もう少しだけ傍に居たくて、触れて欲しくて。けれど、その瞬間、頭を掠めてしまった人物に、依緒は眉を寄せてつま先を睨んだ。







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