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朝、昼、夜いつも





 机からバサリと音を立てて辞書が落ちる。
 沈黙がキスの合図。お互いキスを期待して、でもそんな気持ちを悟られまいと知らぬ素振りで隣に座る。どんなに抵抗しようとも、この気持ちには抗えないのに、それでも天邪鬼はますますひどくなるばかりだ。
 だから、こうして彼のぎこちないキスがすごく好きだと思う。惜しむように優しく恐る恐る触れる唇は、重なった瞬間に甘い果実に変わる。触れて、離れて、目が合って、そしてまた触れる。そんなキスを繰り返して、何度も見つめ合って、それでも飽き足らないほどに彼が好き。
 唇が触れるだけで全身がとろけてしまうというのは本当で、好きという熱が高まって心が熟した果実のように甘くだらしなく崩れていく。全身で彼が愛しい。愛しいなんて言葉じゃ足りない。本当に一つになってしまえたら良いのにと、肌でしきられるこの体をもどかしく思う。
 朝、洗面所で歯を磨きながら寝ぼけている顔が好き。
 昼、学校の机の上でうつ伏せに寝ている背中が好き。
 夜、彼がくれる、秘密のキスが体を溶かすほど愛しい。
 今こうして、部屋で交わす、このキスのように……。


「あ……」
「……ん?」
 美琴の言葉に、晴樹は小さく声を上げた。ちょうど深いキスをしようとする、その寸前で美琴が唇を離したからだ。物足りない感覚が舌を伝う。
 一つの勉強机に椅子を二つ並べて、美琴は晴樹に英語を教えていた。この間の中間テストで赤点をとった晴樹に、美琴は英語を教えるよう母親に泣きつかれたのだ。
 バスケ部の練習で毎日遅い晴樹は、家に帰って来るとベッドに倒れこむ。死んだように眠る晴樹を叩いたりつねったりして、美琴は机に座らせる。座らせてもなお机の上でうな垂れる背中を揺すって起こし、教科書を開かせる。疲れている晴樹を眠らせてあげたいのは山々だが、落第してはもともこもない。それに、美琴には一つのひっそりとした楽しみがあった。眠たそうに目をこする晴樹が可愛くて、無防備な顔にいつもどきりとする。眠いと文句を言う唇が愛しい。その唇がいつも自分の唇に触れているのだと思うだけで英語を教えるどころではなくなってしまうのだ。

「英語のスペル聞いてきたくせに……キスなんて反則なんだから」
 美琴は消え入りそうな声で言うと、顔を逸らした。しかし、心は言葉と正反対で、今日もキスしてくれたことが嬉しくて、どうしたら良いか分からずに沈黙ばかりが流れる。
「なんだよ。そっちだって嫌なわけじゃないだろ」
 晴樹は机に肘をついて、片方の手で器用にシャーペンを回す。不満な時の晴樹の癖だ。美琴は俯いた顔から視線だけちらりと上げて晴樹を盗み見る。質の堅そうな髪は父親似だが、口角の上がった可愛い唇は母親似らしい。美琴とは違う、晴樹だけが持つ特徴。体に流れている血は違うのに、同じ名字が二人を縛る。姉弟という枠が簡単に二人を括ってしまう。
 小学生の頃、母が再婚すると言った時、もっと反対しておけば良かった。けれど、あの時、弟は弟でしかなかった。年の変わらぬ小さな男の子は、性の枠を超えた家族という特別な存在にしか思えなかった。男だなんて、知らなかった。

 ゲームでもない、好奇心でもない、まして遊びなんかあり得ない。確かにある事実は、恋に落ちている、このことだけ。血の繋がらない、弟に……。
 あの日、あんな事件さえなければ、美琴と晴樹は姉弟でいられた。互いが交わすキスの甘さ、痺れ、熱、どれも知るはずもなかった。
 家の廊下で会えば憎まれ口、学校で会えばさり気なく無視。友人が晴樹を褒めようものなら、晴樹のあらを全て吐き出すようにまくし立てる事だってできた。それなのに……。


 夏の中元に届いた贈り物の箱には、ぎっしりと350mlの缶が詰められていた。ジュースのようなラベルだが、よく見るとカクテル等の甘いお酒の種類で美琴はふざけ半分に手を出したのだ。
 両親は知り合いの結婚式に呼ばれて田舎へ帰省中の夜だった。あまりの口当たりの良さに美琴は気を良くして、部活から帰ってきた晴樹にも勧めたのが始まりだった。
 二人でソファにだらしなく腰掛けてテレビのお笑い番組に笑いを飛ばし合った。机にはチョコレートやスナック菓子のかすが散乱している。片手には缶ジュース、もとい、甘いジュースのようなお酒を持って、どちらかが新しい缶を開ける度に意味もなく乾杯をした。
 明日は部活で朝が早いと渋っていた晴樹の顔も、いつの間にかすっかり笑顔に変わっていた。カシスオレンジ、カンパリソーダ、スプモーニ、スクリュードライバー。名前の意味もよく分からずに、次々と缶のタブを開けていく。
 一缶、二缶、三缶、四缶。初めは机の上に置かれていた空っぽの缶もいつしか床に転がり、笑う声にも歯止めが利かなくなってきて、力の抜けるような感覚におかしいと感じつつも美琴は缶を口元へ運んだ。まるで麻酔中毒のように、舌がお酒の甘さを求める。
 次第に気分が高揚して口元が緩み、口をついて出た美琴の憎まれ口に晴樹も酔った勢いでつっかかった。酔ったせいか、舌が良くまわる。
 トイレに行くため足を立ち上げようとした瞬間、予想通りの力が入らなかった美琴の体は不安定にぐらりと揺れて倒れ込んだ。反射的に晴樹が支えようと腕を伸ばす。倒れ込む美琴を難なくキャッチして、華奢な美琴の体は何の痛みも感じることなく、年下の晴樹の腕の中に綺麗に収まってしまった。
「ったく、危ねえな」
 呆れたように囁く晴樹の息が美琴の首筋をふわりとくすぐった。白い制服のシャツからは微かな洗剤の匂いと、お日様に似た晴樹の匂いがする。薄いシャツにその意味はなく、やんわりとした温もりが美琴の肌にも伝わった。途端に、美琴は自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。思えば、いつから晴樹に触れなくなったのだろう。自分と同じ柔らかさだと思っていたのに、全然違う。どんどん大きくなっていく心臓の音にやり切れなくなって、美琴が慌てて晴樹の腕から抜け出そうと顔を上げた瞬間、甘い匂いと柔らかい何かが唇を掠った。

 初めはよく分からずに固まっていた。お酒で頭がまわらないこともあり、まさかキスなどとは考えもしなかった。それがキスだと分かっても、美琴はただ冗談交じりに笑うしかなかった。感情よりも、意思とは関係のない言葉が先に出て、瞬間的にはぐらかそうと頭が働いたのかもしれない。もし酔っていなかったら、青ざめるどころではない。一生晴樹を避け続けたかもしれない。
 お酒は全てを軽くして麻痺させてしまう。美琴はふらふらと覚束ない足取りで近くの棚まで歩み寄ると、棚の上にある入れ物からリップクリームを取って、晴樹の隣にまた座り込んだ。
「晴樹、唇荒れてるでしょ〜。そんなんじゃ女の子に嫌われちゃうよ〜。うふふ、私がリップ塗ってあげる」
 締まりのない顔で笑うと、美琴はふたを外してリップの芯を晴樹の唇へあてがおうと試みた。晴樹もだいぶ酔っているのか、嫌々ながらも、たいした抵抗もせずに美琴がリップを唇に塗ることを許していた。晴樹の口数が急に減ったことに、美琴は気付かなかった。
 晴樹の唇をじっと見つめながら、何度も何度もその唇を往復してリップを塗る。すぐ目の前には晴樹の顔。唇の感触がリップを塗る指に伝わってくる。最初はニヤニヤとふざけて笑っていた美琴だったが、その口元はいつの間にか力なく下がっていた。

 リップを塗る手がふいに止まる。美琴がそっと視線を上げると、晴樹もまたじっと美琴を見下ろしていた。お互い、捕らわれたように動かない。
 変な気分だった。目の前がとろんと蜜を含んだように甘く広がっていく気がした。リップを持つ手がゆっくりと下りていく。沈黙は、お互いの気持ちをその瞳から読み取っているように感じられた。
 どうしてそうなってしまったのか、今でも理由は分からない。やがて、晴樹がそっと顔を傾けて、宝物に触れるような優しい口付けを美琴の唇に落とした瞬間、もはや理性など機能しなくなった。
 そこには、何の隔たりもなかった。倫理も、常識も、罪悪感も。男と女、そんな認識よりも、今この唇を合わせたらどうなるのか、その未知なる感覚に、考え出したら歯止めが利かなかった。
“本当は、きょうだいが一番……恋に落ちやすいのだ”
 そう言ったのは誰だっただろう。
 朝も、昼も、夜も。
 いつも一緒にいる義理の弟は、恋に“堕ちる”運命だったのだろうか……。





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