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 こうしてフェンス越しに立つ日々は、もう何日目になるだろう。
 菱形の金網をぎゅっと握りながら、鈴は小さくため息をついた。思いつめた視線を独占するのは、いつも同じ人。ボールを空に高く上げ、見上げる真剣な瞳。綺麗なフォーム。コートの中の彼は、違う世界の住人のようだ。授業中も、放課後も、帰り道も……。彼を見つけることだけは本当に上手くて、けれど、その視線が重なることはない。見ているから分かってしまう。彼が、誰を見ているのか。
 だから苦しいのに、だけど想いは消えなくて。今日もこうしてテニスコートに来てしまう。何人もの女の子達がぐるりと取り囲んだその中に、自分も同化する。きっと彼は気づかない。その声で、私の名前を囁いてくれることなんて、きっと一生、ないのだろう。




視  線

【chapter.1】 れた声





「じゃあまたね、鈴」
 親友の
妃菜ひなが、手を振りながら教室から出て行った。薄暗い教室の中が静まり返る。すずは振り上げた手をゆっくり下ろすと、窓の外に目を遣った。校庭には、まばらに人がつどっていて、ユニフォームや体操着にに着替えた生徒達が部活動に励んでいた。
 準備運動をする者、グラウンドをランニングする者、楽しそうに笑い声を上げてふざけている者。そんな風景を通り越して、視線は自然と右に流れた。
 綺麗に整備された四角形の白いライン。校舎の端に位置するテニスコートでは、すでに数人の部員達が来て、打ち合いを始めている。鈴はぼんやりと見える一人一人の顔を順番に確認すると自分の手元に視線を落とした。
 今日はいない……。そんな風に、無意識に探してしまう自分が嫌になる。今日こそは真っ直ぐ帰るのだと朝から固めていた意志も、もうすでに崩れ始めていた。
 どうしたのだろう。人一倍、部活熱心な彼のこと、休むことなど滅多になかった。ところが、ここ数週間ほど休みがちな日々が続いている。委員会が一緒だから、当番じゃない事は知っている。
 テニスが嫌いになったのだろうか、いや、そんなはずはない。中学生のときからテニスを続けていることを知っている。ならば、怪我をしたのだろうか。でも、そんな噂は全く聞かない。噂でしか彼に触れることが出来なくても、それは至極当然のことで、彼、蓮沼はすぬましゅうは接点さえない、鈴の想い人だった。

 理由を考えるほど気になってしまい、鈴は鞄を手にすると教室を出た。廊下は水滴の落ちる音さえ聞こえてきそうなほど静かだった。彼を探すつもりはないが、もし運命の神様がいるのなら、校門を出るまでの間に会わせて欲しいと、心の中で祈っていた。そうしたら、心の中に渦巻く不安が晴れて、明日もまた彼に会えることを素直に喜べるからだ。
 告白する勇気はないから、遠くでいい、見ているだけで幸せだった。毎日学校へ行く事が楽しくて、言葉は交わさなくとも側を通るだけで胸の内が満たされる。切ない痛みさえ、どこか甘く心地よかった。気付かなくてもいいと思いながら、いつか彼の隣を歩く自分をいつも想像する。
 けれど、玉砕の覚悟がないのは、まだ誰のものでもない彼に甘んじていただけだった。いつか、きっと、そう夢みる可能性を疑わず、誰の告白も受け入れない彼を、過信していただけに過ぎなかった。その事に、この時は少しも気付いていなかった。

 廊下は人通りもなく、いくら進んでも誰とも出会わない。ふいに遠くの階段から誰かが降りてくる足音が聞こえると、妙に敏感に察知してしまい、恐怖と安堵が心の中で絡み合う。自分の踏みしめた足音さえ、誰かがすぐ後ろからついて来ている様な錯覚を覚えた。
 昇降口までもう少しだと心に発破をかける。けれど、恐怖とは別に、何か心もとない感覚が襲って胸がざわついていた。早く昇降口に行こうと速度を上げて、ちょうど生徒指導室の前を通りかかった時だった。
「……待って」
 微かに聞こえた女の人の声に、鈴は思わず足を止めた。心臓が跳ね返る。すぐ側から聞こえた気がして辺りを窺うと、右手の生徒指導室のドアが5cmほど開いていた。
 誰か怒られているのだろうか。生徒指導室と言えば、そんなイメージが普通だ。とりあえず幽霊ではなかったことに安堵して、特に気に止めることもなく、鈴はまた歩き出そうと前を向いた。しかし次の瞬間、漏れてきた声に鈴は再びドアへと向き直った。
「ダメよ、しゅう、こんな所で……」
 思わず体が硬直した。耳を疑う。聞こえてきた拒絶を促すはずの言葉に、その威力はなかった。艶を含んだ甘い口調がどうゆう時に出るものか、鈴にも分かっている。しかし、ここは学校なのだ。おまけに生徒指導室という厳格な名が、心までも戒める場所。しかし何より鈴の思考を奪ったのは、甘く紡ぎだされた、たった一人の名前だった。
 首の辺りがひやりとした。違う、そんなはずはない。「しゅう」なんて名前は何人だっている。それなのに、拭い切れない不安が鈴の心を灰色に染め上げていく。完全な否定は、次第に好奇心と想像に打ち消されていった。
 足音を忍ばせて、ゆっくりとドアに近づく。彼のはずがない。それだけ分かればいい。わずかに灯る希望を胸に、震える手を握り締めて、鈴はそっとドア隙間に視界を合わせた。

「何で。誘ったの、そっちじゃん。俺としたいんでしょ」
 今度ははっきりと声が聞こえた。心臓がえぐり取られてしまったように呼吸すらまともにできない。見えたのは背中だけだった。だけど、もうそれで十分だった。十分過ぎるほど、心が痛かった。
 いつも聞いてる声、見つめる背中。間違えようもない。彼と向き合うようにして座っているのは、先ほど声を漏らした女の人だろう。すらりと伸びた細く白い足に、華奢きゃしゃな作りの黒いパンプスが似合っている。2メートル四方の茶色いテーブルに腰掛けているせいで、宙に浮いた足先から片方だけ脱げて床に転がっていた。彼は彼女の体を囲うように机に手をついて、覆いかぶさる様に立っている。
「部活、行かなきゃいけないんだけど。行ってもいいわけ?」
 ため息が混じる言葉遣い。ぶっきら棒な言い方は、まるでその先の答えを知っているかのようにためらいもない。
「や……」
 甘ったるく囁く声が鈴の耳にまとわり付く。どろどろとした液体を心に送り込まれているような感覚に、体が強張り重たくなっていく。彼の首にするっと白い腕が絡まり、二人が唇を寄せた。
「今は私のことだけ、考えて」
 漏れてくる息遣い。触れ合う音。立ち去りたいのに足が動かず、苦しくて息もできない。涙が出そうになるのを唇をかみ締めて必死に抑えた。
 相手は前から分かってた。けれど、まさかこんな関係だとは知らなかった。相手は先生なのだ。
 嘘だ、夢だ、悪い夢に決まっている。しかし、目の前の事実に、そう言ってくれる人は誰もいなかった。
 さすがにこれ以上は見ていられなかった。一歩、二歩と後ずさり、鈴は勢いよく走り出した。淵に溜まった涙が零れて、そこからは止まることを知らなかった。飲み込んでも、こみ上げてくる嗚咽が苦しくて、潰れた蛙のように無残な心。
 それは嫉妬だった。
 昇降口まで走ってくると、少しも走っていないのに呼吸がひどく苦しい。そのまま下駄箱の中の靴を取ろうとした手は、力を失いずるずると下駄箱の表面を滑り落ちていった。膝を抱え、座り込み、体を小さく丸めて。どうか誰も通らないで。誰も気付かないで。鈴は声を押し殺して静かに泣いた。






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