視 線
【chapter.2】 共通点
「鈴ー。次の家庭科、移動だよ」
鈴が椅子に座り両腕を上げて気持ち良く伸びをしていると、
「オッケー! 待ってね、今、準備するから」
にっこり笑うと、鈴は机の中に手を入れた。家庭科の教科書と数枚のプリントを取り出す。机の脇に掛けてある鞄からエプロンを取り出すと、胸に抱えて席を立った。
今日は調理実習でカップケーキを作る。誰にあげるか、誰かからもらえるか、女子も男子も朝から騒いでいた。
「鈴、今日機嫌良いねー。何かあった?」
「えー、そうかなー。いつもと同じだよ」
小さく笑いながら、そのまま華織の隣をゆっくりと歩く。明るく振舞うのは昔から得意だった。本当に楽しい時も、そうでない時も。笑ってさえいれば、何とか平常心を保っていられた。
「あれ、妃菜は」
「橘くんのとこじゃないかな。辞典を返してもらうって。先行ってるってさ」
しょうがないね、と華織がくすくす笑う。
「そっか」
相槌を打って教科書を抱え直すと、その拍子に教科書の上に乗せていた携帯電話が滑り落ちた。騒がしい廊下に、やや大げさな音が響く。鈴は慌てて腰を屈めたが、手を伸ばした瞬間、違和感が脳裏を掠めた。
何かが足りない。黒いデザインのシンプルな携帯電話がいつも以上に寂しげに見える。
やがて、赤いチェックのクマの人形が付いたストラップがないことに気づき、思わず声を上げた。
「うそ」
腰を屈めたまま辺りを見回してみたが、それらしき物は見当たらない。立ち上がってみても同じだった。赤い色は人目を引く。いつ失くしたのだろうと不安に思っていると、鈴の異変に気付いたのか華織が心配そうな面持ちで顔色を窺った。
「どうかしたの」
「あ、うん。ちょっとストラップ失くしちゃったみたい。でも、たぶんその辺に落ちてると思うから。ごめん、先行っててくれる?」
「ああ、あの赤いクマのやつでしょう。一人で大丈夫?」
「うん」
「じゃあ、教科書持って行ってるからね。早くおいでよ」
華織は鈴の手から教科書を取ると、先へ歩いていった。時々心配そうに振り返りながら、やがて階段を降りると見えなくなった。その姿を見送って、鈴はもう一度腰を下ろす。
失くしたストラップは、特別な物だった。大好きな兄が買ってくれたもの。クマの人形の小さい体と愛嬌のあるくりりとした黒い目が鈴に似ていると言って、プレゼントしてくれた。兄の、最後のプレゼントだった。
ずずでも付いてれば、落とした時にすぐ気づく事ができたのにと、今さら後悔しても仕方がないことは分かっているが、こんな状況の時に失くしたことが、さらにショックだった。失恋した上に、さらに大切な物まで失くすなど、『泣きっ面に蜂』とはこの事だ。どうして嫌な事は重なってしまうのだろうと泣きたくなる。
ふいに、鈴の脳裏に、昨日のことが夢のように思い出された。遠い背中、交わす唇、重なる身体……。
相手が同じ生徒ならまだ良かった。諦めがついた。しかし、あの人だけは嫌だった。年も、容姿も、中身も、どれとして初めから敵わない。戦うにもフィールドが違いすぎる。相手にもならない歯がゆさに胸が苦しい。
鈴は溢れる想いを抑えるように、口を強く結んだ。
結局、見つからないまま、放課後がきてしまった。
クラスメイトが挨拶を交わして次々と帰っていく。鈴もまた、鞄に持ち物を入れた。今日は委員会の当番があり、これ以上探してる暇はない。終わってからまた探すしかないと諦めて、悔いが残るまま、仕方なく図書館に向かった。
綾南学院の図書館は一号館と二号館に分かれている。主に、生徒達が利用するのは新館の二号館で、古い一号館は廃墟同然の洋館だった。今や
鈴は先に二号館に向かうと扉を開けた。すでに何人かの生徒が机に座っている。机に向かい、黙々と勉強をする者。雑誌を読んで暇を潰すだけの人。睡眠をとっている人。皆それぞれに図書館の空間を使っていたが、静かな空気に変わりなかった。
当番は二人一組。鈴のペアは五組の
カウンターの前まで来て辺りを見回したが、まだ来ていない様子だった。鈴は腕にかけた紙袋に視線を落とした。調理実習で作ったカップケーキが二つ、ピンクのリボンにラッピングされて入っている。悠己にあげようと思い、取っておいた。深い意味はないが、友達として日頃の感謝も込めて食べてもらえたらと思った。せっかく作ったカップケーキを一人で食べるには寂しすぎる。失恋したなら、なおさら……。
鈴は暫くカウンターの椅子に腰掛けていたが、なかなか姿を現さない悠己に次第に心が落ち着かなくなっていた。遅刻をする前には必ず連絡をくれる悠己のことだ。もしかしたら、すでに一号館の方へ行ってしまったのかもしれないと思い直して席を立つと、そのまま二号館を後にした。
しかし、一号館に来ても悠己の姿はなく、鈴は仕方なく長机の上に荷物を置いて座った。
部活で何か集まりでもあったのだろうかと、色々と思案してみる。悠己は男子テニス部に所属している。蓮沼洲と同じ。そして、蓮沼洲もまた図書委員だった。同じ委員会とは言え、さすがに当番まで一緒になることはできなかったが、代わりに悠己から気兼ねなく色々な話が聞けた。テニスのこと、悠己の趣味、そして、蓮沼洲のことも……。
「もしかしてお休みかな」
ぼーっと一点を見つめて、鈴はぽつりと呟いた。窓から差し込む夕陽で宙に舞う埃がきらきらとガラスの破片のように細やかに輝いている。赤く染まった図書館が、ひどく寂しげに感じられた。誰もいない、独りだけ。柔らかなオレンジと血のように鮮明な赤が入り混じる光の中に、このまま自分も溶けてしまえば良いのにとぼんやり思った。いつまでも感傷的な気分に浸っているわけにはいかないと思っても、一体どこから力を出したらよいのか分からなくなっていた。
「委員会の人、だよね」
突然、背後から投げかけられた声に鈴は体を強張らせた。心臓の流れがどっと速くなる。一人だと思い込んでいた分、驚きが隠せない。しかし、鈴を本当に驚かせたのは、聞こえてきたその声だった。落ち着いて、やや
それは、悠己ではなかった。それどころか、この声は……。
鈴は座ったまま、ゆっくりと振り返った。幻聴かもしれないと、何度も思い直しながら。全身に痺れをもたらす感情は、恐怖とは別のものだった。
「どーも」
制服姿の洲が鈴を見下ろすように立っていた。テニスバックを右肩に掛けている。鈴は微かに口を開けたまま言葉が出ず、呼吸する空気さえ喉に引っかかってしまう。何が起きたのかよく分からなかった。どうして、なんで、その言葉ばかりが何度も頭の中で繰り返される。決して重ならなかったはずの瞳が、今、自分に向けられている。黒い瞳に自分が映っている。いつも遠くでしか見れなかった姿が、目の前にある。見つめ返す事だけが精一杯で、それ以外の事に頭は全く機能しない。
「白河さん、でしょ」
囁かれた名前が頭の中でリピートする。神様は意地悪だ。今さら願いを叶えるなんて。鈴は黙って小さく頷いた。
「俺、悠己の代わり。あいつ風邪ひいたらしくてさ。当番代わってくれってさっきメールきたから」
洲は隣の椅子を引くと荷物を置いた。優しい悠己のことだ、鈴一人では書庫整理も大変だろうと思い気を遣ってくれたのかもしれないとすぐに思い当たった。
「ご、ごめんね、わざわざ」
つかえながらようやく出た言葉は、情けないほど震えていた。洲は鈴の方を一瞥すると「白河さんが謝ることないんじゃん」と言って微かに笑った。その声だけで、その笑顔だけで、胸の奥がじんと灼けてしまう。嬉しいのに、目の前の洲は鈴には悲し過ぎた。こんなに傍にいても、手に入らない。彼の心を捕えるのはあの人であって自分ではない。せいぜい言葉を交わすことが精一杯の身分に過ぎない。そんな自分勝手な憶測が胸を締める。
「あ、うん、それもそうだよね」
鈴はまつ毛を伏せて俯いた。こんな時こそ明るく振舞えない自分が情けなかった。心の奥の黒い穴が意思に関係なく広がって、まるでブラックホールのように鈴の心をじわじわと喰っていく。
「書庫整理だっけ。とりあえず適当に始める?」
洲が机から歩き出したすぐ後に、鈴も続けて立ち上がった時、前を行く洲のポケットから何か赤い物が落ちた。
「あ……」
鈴は声を上げたまま言葉を失った。古びて傷付いたこげ茶色の木目の床に、小さな赤いクマの人形が転がった。
「ああ、それ、昨日……」
洲は途中で言葉を止めた。鈴は腰を屈めて拾い見上げると、洲の顔は表情を失いどこか強張って見えた。
「これ、どこで」
鈴は言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。表情を隠すように俯いて、言葉を呑み込む代わりに唇を噛む。まさか……。
思い当たったたった一つの事が、全身をも揺るがす。人形を手にしたまま、再び顔を上げることができなかった。
もし、失くしたのが昨日だとしたら。あの時だとしたら。
昨日、洲と鈴の共通点は、ただ一つ。
「生徒指導室前……だけど」
呟いた洲の低い声が、さらに重みを増して鈴の心に圧し掛かった。
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