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【chapter.3】 熱





 言葉など、もう出ては来なかった。昨日の出来事が例え事実だったとしても、洲の口から聞きたくはなかった。嘘だと思い込む余地すら消されてしまう。
 呼吸が苦しくなっていき、鈴はストラップを強く握り締めた。小さなクマが、手の中でよじれる。笑顔の崩れない愛らしい顔が、悲しく見えた。もう笑顔は作れない。黒い感情さえも青く変化して、がたがたに崩れた想いが目の縁に溢れた。
 鈴は唇を強く噛み締めて、必死に堪えた。ここで泣いてしまったら終わりだ。我慢すれば何事もなく終わる。唇を引き上げて顔を上げれば、笑顔なんて簡単に見せられるはずだった。
 何とか足を立たせたものの顔を上げる事が出来ず、体が動かなかった。力をどう入れて体を動かせばよいのかさえ忘れてしまっていた。

「へえ、意外」
 頭上から流れてきた洲の言葉は思いも寄らぬもので、鈴は驚き、ゆっくりと顔を上げた。長い沈黙に不審を持たれたかと思ったが、洲は表情を崩しておらず、無表情で言葉を続けた。
「誰かに怒られたとかさ。じゃなきゃ、生徒指導室なんて誰も寄り付かないじゃん」
「それは」
 違う、とは言えず、言葉を飲み込んだ。理由を聞かれたところで、冷静を欠いた現状では上手くかわせそうになかった。
 鈴が黙り込んだのを肯定と捉えたのか、洲は声に少しだけ笑いを含ませて言った。
「見かけによらず、何か為出しでかすタイプなんだ」
 洲の笑顔は、鈴には痛いくらいのプレゼントだった。いつも遠くから見るのは無表情な顔ばかりで、たまに見せる笑顔は友人へのもの。目さえ合う事のなかった鈴にとって、決して叶うはずのない願いだった。
 伝えるために言葉があり、言わなくては気持ちなど伝わらない。それでも、言う勇気などなくて、いつも見ているだけだった。気付いて、好きなの、そう心の中で叫ぶ悲痛に似た切ない想いが相手の心にも伝わって欲しいと願うばかり。言いたくても言えない、それでも伝わって欲しいと思う矛盾した気持ちに、いつも苦しめられる。

「どうして……」
 鈴は呟いた。洲はよく聞き取れなかった様子で聞き返す。
「どうして、バレていないって思うの」
 洲は言葉を返さなかったが、代わりに瞳が驚きを表していた。先ほどの笑顔は消え、鈴の様子を窺っている。漆黒と呼ぶに相応しい瞳は、硝子玉のように艶やかな色をしていて、洲の持つ深みを帯びた雰囲気をさらに強くしていた。
 しかし、目が合う事がこんなにも苦しい事だとは知らなかった。見上げる洲の目は、綺麗で、真っ直ぐで、けれど鈴の心を締め上げる。その目が自分を見ていないと思うほどに、映っているのがたった一人の女性だと思うだけで、息もできないくらいに苦しくなる。

「ねえ、どうして……」
 こんなに好きなの。語尾は喉で擦れて言葉にならなかった。諦められるものならばうにしている。それでも捨て切れない気持ちは自分でも整理のつかない感情で、洲を好きでない自分など考えられないほど膨れ上がってしまった。
 好きになるほど遠くに感じて、洲を想う度に自分を追い詰めてしまう。苦しくて、溺れないようにもがいても、洲は何も知らないで手を差し出す。
 もう、一人で闘うには限界だった。

「白河……さん、もしかして」
 洲の問いかけに鈴は答えることなく、抱き着くように押し倒した。もう一言たりとも洲の声を聞きたくなかった。耳に流れるたび、心臓を強く絞られていくようで耐えられなかった。
 洲は戸惑う声を上げて鈴を腕に受け止めたが、支えの崩された体はそのまま後ろへ倒れて本棚に背中が当たり、小さくうめいた。重なった二人の体は、重みでずるずると滑り込む。

 洲の手がそっと肩に触れるや否や、鈴は声を上げた。
「いやだよ」
 洲の手が肩に触れたまま動きを止めた。鈴の声は弱々しく震え、微かな嗚咽おえつが交じる。やがて、鈴は洲の首下から顔を離すと、頬に温かい雫が伝った。紺色のプリーツスカートの上に落ちて、小さな雫が浮き上がる。
「話した事もないのに。多くを、望んでるわけじゃないのにっ」
 鈴は洲の制服を強く握った。胸に渦巻いた独り言が口先から飛び出していく。
「なのに、どうしてか大好きなの。好き。好きすぎてもう……よく分からないよ」
 洲は微かに目を見開いて、鈴を見つめ返す。鈴もまた、静かに目を合わせた。自分が今何をしているのか、理性が追いつかなかった。
 何か言おうとしたが、開いた唇は動きを止め、鈴は顔を傾けると近づけた。突き飛ばされるかもしれない、そんな考えさえ浮かばずに、自然に体が動いていた。洲のシャツを掴んだ手にさらに力が加わって微かに震える。
 拒否されるならその方が良かったのかもしれない。しかし、後悔よりも先に唇が触れてしまった。
 口先が少し触れているだけ。感触も温度も真っ白で、心臓の音だけが全身に響き渡っていた。頼りない震えなど消し去ってしまうような激しいキスもできず、離すタイミングさえ忘れて、こんな時になって後悔が一気に押し寄せた。
 シャツを掴んだ手を緩めて、そのまま唇を離したつもりが、微かに離れたはずの唇はまた重なった。
 鈴は驚いて目を見開いたが、押し寄せてきた甘く疼くような感覚に再び目を閉じた。頭の後ろに添えられた手は、自分のものではなかった。
 戸惑う声は塞がれ打ち消されて、生温かい温度が徐々に鮮明に伝わり出し、力んだ体を溶かしていく。ふわふわと浮いているような心地で、場所も、時間も、自分自身さえ霞んでいく。
 やがて、キスをしていると本当に実感したのは、唇の奥に相手の動きを感じた瞬間だった。

 目の覚めるような思いで鈴は手に力を込めて弾くように体を離すと、視線を落とした。視界の上部に微かに洲の唇が入った瞬間、虫唾むしずが走るように恥ずかしさが込み上げて、勢いよく立ち上がった。目など、見れるはずもなかった。
「ご、ごめんなさ……」
 悲鳴に近い声で謝ると、すぐ傍の机の上から鞄をひったくる様にして掴んだ。顔から血の気が引いていく音がする。口元を手のひらで押さえ、鞄を胸に抱えると鈴はドアの方へと夢中で走り去った。洲からは何の気配も感じられなかった。
 扉を開け、振り返らずに強く閉める。早く早くと心が急くほど、行動がのろく思えて歯がゆい。再び走り出したものの足の震えが足元を覚束なくさせて、廊下の角を曲がる共に倒れるように床に崩れた。

「何、したの、私」
 鈴の呟きはすぐに静寂に消された。遠くの方で、部活動の掛け声がぼんやりと聞こえる。
 取り返しのつかないことをしてしまった。それどころか、もうこれで完全に嫌われた。
 唇に残る湿り気とほのかな熱が、消えない現実を色濃く残していた。鈴は声を喉に詰まらせたまま、暫く立ち上がる事が出来なかった。






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