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「うわっ!」
 突然上がった叫び声に、窓の外を眺めていた沙織は驚いて振り向いた。
 古びて大げさに揺れるボロバスは、沙織と一真とそして無関心な運転手を乗せて草っぱらの真ん中をモクモクと煙を吐きながら走っている。沙織と一真は、真ん中の通路を挟んでそれぞれ左右の窓側に座っていた。
 一真は鞄をごそごそと忙しなくあさり、やがて肩の力を落として悲しげな瞳を向けた。沙織の脳裏をなぜか悪い予感が掠めたが、バッチリと合ってしまった目を今さら背けることはできない。
「やばい、……ない」
「え、何が」
「携帯がない」
「はあ?」
 沙織は思わず声を上げた。
「忘れたみたい」
「あんた、まさか」
 さっきのホームにかと、落胆にも焦りにも似た不安が沙織を襲う。ただでさえ交通の便が悪い田舎だ。今さら戻ったら日が暮れてしまう。沙織が言いかねていると、一真はシートにだらしなく寄りかかり、力のない声で答えた。
「そういえば、今朝から記憶にないし、たぶん、家においてきたっぽい」
「なんだ、びっくりさせないでよ」
 沙織はほっと息をつくと、再び窓の外に目を遣った。前方の空いた窓から入り込んでくる風はとても爽やかで、自分の体まで透き通ってしまうような感じがする。しばし窓の縁に肘をついて風を感じていた。

 ふいに隣に気配を感じて、沙織はゆっくりと振り返ると大声を上げた。
「な、何で隣にいるの!? いつから」
 バスに乗った時は通路を挟んで隣の列の座席に座っていたはずの一真は、今、沙織のすぐ隣に座り、気の良い笑みを浮かべている。
「折角だからさ、一緒に座ろうと思って。二人しかいないのに離れてるのも寂しいし」
「イヤ」
 沙織がきっぱり拒絶すると、一真はひるみもせずに頭を掻いた。
「そんなこと言わずにさ。あ、それから携帯、貸してくれない? 遅刻ってこと、友達に伝えておこうと思って」
「どうして私が貸さなきゃならないのよ」
 やましいことがあるわけではないが、人に携帯を貸すのは気が引ける。沙織が渋っていると、一真は困った顔をして言った。
「別に変なとこ見ないからさ〜」
 意味ありげに笑う一真の言葉に沙織はなぜかカチンときてしまい、鞄のチャックを勢い良く引っ張ると、携帯電話を取り出して一真の胸に押し付けた。
「やましいことなんてないわよ。ほら、勝手に使ったら」
 一真は受け損ねて落ちそうになった携帯電話を慌てて受け取った。「あ、最近出た新機種だ」と物珍しそうにぐるりと眺めている。
「送信料、100円だからね」
 沙織はややきつめの口調を浴びせ、窓の方へと顔を逸らした。もちろん冗談のつもりだったが、何でこんなにムキになってしまうのだろうかと、心の中で自分に嫌気がさしていた。こんな意地っ張りな性格だから、あの男にも可愛げのない女と言われるのだろう。
「大嫌い……」
 空に向かって小さく呟いた言葉は、空気にさらわれることなく心をさらに重くした。今すぐにでも泣きたいくらいだと、窓に映った歪んだ唇をじっと見つめる。
「世知辛い世の中だねえ」
 一真はぼそりと呟くと、慣れた手つきで携帯を打ち始めた。沙織は横目で様子を窺い、違う機種なのに使いにくくはないのかと不思議に思った。やがて、少しすると、一真は画面を閉じて沙織に返した。
「一応、送信履歴消しておいたから」
 言葉に笑顔を付け加えると、そのまま腕を組んで隣で眠り始めた。通路への道を一真に塞がれ、沙織はどうしようもできずに座っているしかなかった。あっけらかんとした一真の態度に、募っていた怒りさえ萎えてしまう。
 こいつは、例え無人島に流されても生き残るタイプだ。どこからともなく浮かんだ発想が、沙織の中で確信に変わっていた。電車を乗り過ごした時から思っていたが、神経が太いとはこのことだと独りため息をつき、仕方なく窓の外に目を向けた。
 時折、錆びれた標識のバス停をいくつか経過したが客はおらず、バスはそのまま通り過ぎていった。

 バスから降りると、目の前は駅なのかと疑うほど小さく頼りない建物だった。駅のホームは電車一両分の長さしかなく、台風に遭ったら吹き飛んでしまいかねない脆さだった。昔読んだ『三匹の子豚』に出てくる木の家を思わせる。
 切符を買うところが見当たらず、それどころか今度は駅員さえいなかった。沙織がきょろきょろと辺りを窺っていると、一真は沙織の肩をポンポンと叩いた。
「切符ってさ、もしかして電車の中で買うんじゃないの」
「そうなの?」
 沙織が珍しく素直に答えると、一真は楽しそうに笑って頷いた。それから大きく伸びをして空気をいっぱい吸い込んだ。
「潮の匂いがする」
「え?」
 沙織も空気を吸い込む鼻に意識をもっていったが、草の擦れた匂いしかしなかった。
「気のせいじゃないの」
 首を傾げると、一真も「う〜ん」と唸る。
「第一、潮の香りって何よ」
「何って言われても。珠綺さん、海嫌い?」
「好きでも嫌いでもない。だってもう随分行ってないから。あなたこそ、どうなの」
「え、俺? 俺は好きだよ。だって海辺の街出身だから。ほら、潮っぽくない?」
「あ、ああ……」
 沙織が納得したような声を上げると、一真は嬉しそうに「だろ〜」と得意げに笑ったが、「無神経なトコがね」と付け加えると、しゅんと肩を落として、まるで喜怒哀楽の激しいおもちゃみたいだった。
「ひどいな〜。そんなんじゃ彼氏、よっぽどタフじゃないと付き合えないね」
 一真は大げさにため息をつくと、「俺なんてたったの数時間で傷だらけだよ、心がさ」とわざとらしく泣きまねをした。
「あいにく、彼氏なんていないの」
 沙織はさらりと言葉を返すと改札らしき通路を通って、誰も居ないホームに立った。すると、付いて来ていると思っていた一真は改札を通らずに外側へと走り、脇の線路を歩いている。「都会じゃ捕まっちゃうね」と得意げに笑う一真に、沙織は呆れてため息をついたが、それも束の間だった。
 カンカンカン……。
 すぐ傍で、踏み切りの鳴る音が響いた。
「ちょっと、電車来るわよ。危ないからホームに登って」
 沙織は慌てて声をかけたが、一真は焦る様子もなく線路をぶらぶらと歩いている。
「もしさ〜、俺が死んだら、珠綺さん、泣いてくれる?」
 一真は相変わらずの口調で、笑ったまま立っている。向こうの方に小さく電車が見えた。沙織の頭から血の気が引いていった。
「冗談はいい加減にして! 早く来て!」
 一真が何でこんなことをするのか沙織には分からなかった。冗談にしてもいき過ぎている。頭の中が混乱してまとまらず、沙織は必死に手を差し出した。
「ふざけないで! 死んだらあの世まで追いかけて行ってぶっ叩いてやるわよ!」
 沙織は悲鳴に近い声を上げた。電車は一真の背後にじりじりと迫っている。
「あ〜珠綺さんのビンタ、痛そうだな」
 そうポツリと呟くと、一真は沙織の手を掴んでホームへと登った。それから数秒ほどして電車がホームに入ってきた。


 電車は無言のまま揺れていた。沙織は向かい側に座っている一真から目を背けて黙り込んでいた。
「ごめん、ね」
 そう声が聞こえて、沙織はゆっくりと一真を見た。また子犬のような頼りない目で見つめてくるのかと思っていたが、予想は外れた。一真は横を向いたまま、流れる景色をぼーっと眺めていた。無表情なその横顔は、魂が抜かれた人形のように生気がなかった。
「本気じゃなかったんでしょ、さっきの」
 沙織は問うように言葉をかけると、一真は自嘲してただ寂しげに笑った。そんな一真に、沙織は少し寒気がした。あの時、もしホームに登ってこなかったらどうなっていただろうか。そこから先を想像したくなくて、沙織は打ち消すように目をぎゅっと閉じた。
「死んだらおしまいよ」
 沙織は視線を下に落とすと、吐き出すように言葉を続けた。
「誰だってね、嫌なことくらいあるわよ。何日も何日も嫌な日が続く時もあるし、ああ〜私ってどうしてこんなに不幸なんだろって潰れてしまいそうな時だって……。ううん、その方がきっと多いと思う」
 沙織は外の景色に目を細めて、重たい口をまた開いた。
「でもね、たまにあるでしょ、幸せな時。本当にちょっとだけど。人から見ればどんなに些細な幸せでも、それがあるからね、辛い涙も少しずつ振り切っていけるんだと思う」
 沙織はどこか自分にも言い聞かせるように言葉を並べた。辛いことなんて、本当に山ほどある。本当は今日だって、学校に行きたくなった。昨日の陰口だって、泣きそうなほど痛かった。
 一真は暫く黙って聞いていたが、ふと沙織の方に目を向けた。
「ちなみに、珠綺さんの嫌なことは?」
 そう言って、一真は曖昧に笑った。
「暇だからさ、ゲームしよう。自分のこと、交換に話してくの」
 沙織は暫し固まっていたが、ふっと力を抜くように微笑んだ。向かい側で同じように微笑む一真が、なぜか長年の友達のように近く感じられた。
「じゃあ、俺からね」
 そう言って、二人は互いに変わった自己紹介を重ねていった。一真の話す独特の口調が、沙織のささくれ立った心を柔らかくほぐしてしていくようだった。

 暖かいオレンジ色の日差しを浴びた電車は、2人を乗せて、このままどこか知らない暖かい土地へ向かうような希望に包まれ揺れていた。




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