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重ねる数だけ
恋は盲目なんて言ったの、誰だっけ?
悪いけど、俺は計算づくであんたを奪うよ。
「青くん、今日は一番だね」
未里は部室のドアを開けて青を見ると、嬉しそうに笑って部屋に入り机に座った。座る仕草に、肩まで伸びた黒い艶やかな髪が柔らかく揺れる。口角の上がった口元から流れる声は鈴が鳴るように愛らしい。甘い香りが漂ってきそうなうなじが、髪の隙間から白くのぞいていた。
未里はそのまま机に向かって部誌にペンを走らせている。その後姿を眺めながら、青は胸元まで脱ぎかけたTシャツを静かに戻した。自分の着替えを見ても顔色一つ変えずに作業を続ける未里が妙に気に障る。男の裸なんて見慣れているのか、それとも自分のことなんて眼中にないのか、結局彼女が見ているのはあいつだけなんだと、嫌気が差すくらいにすらすらと心が回答を出していく。気に障る本当の原因は、広がることを抑えられない、この自分勝手な想像だった。
未里は華奢な肩を小さく揺らしてくしゃみをすると、またペンを走らせる。青の存在など、忘れているかのように沈黙もいとわない様子だ。それに対して青は見つめていることを悟られないように、カバンをあさる音で沈黙をごまかそうとしていた。
香月未里は、青の一つ先輩で高校二年生。男子テニス部のマネージャーをしている先輩だった。誰にでも優しく、柔らかに接する人当たりの良さは先輩にも後輩にも慕われていた。頼まれると嫌とは言えない性格らしく、少し不器用なところはあっても、精一杯頑張る姿を見ているうちに、いつの間にか彼女を目で追うようになった。天然なのか、危なっかしいのか、度々転びそうになった場面では、すかさず支えたことなど何度もある。抱きかかえた時の未里の柔らかさに驚いて、気になって、他の誰かが彼女に触れるなど考えたくもないくらいに好きになった。しかし、そんな青の想いは募るばかりで報われるものではなかった。
未里は、同じくテニス部に所属する二年の千川武志と付き合っていた。部活中も仲良さそうに話す姿を日に何度も見かける。その度に息苦しくなった。せめて千川が嫌なヤツなら良かった。心から憎めた。けれど、千川は嫌なヤツどころか面倒見の良い先輩で、誰に対しても気兼ねなく接することができ、おまけにテニスも上手かった。そんな武志を未里が嫌うはずもなく、まさに相思相愛で誰もが微笑ましく見守るような二人だった。
それでも、青には祝福することなど到底無理な話だった。未里を諦めようと思うほど、気持ちが募って膨らむばかりで、毎夜、布団の中で考えることは彼女のことだった。近くにいるのに、手に入らない。手が出せない自分がもどかしい。未里と接するたび、頭がおかしくなりそうだった。
先輩を敵に回すか、未里を諦めるか。答えなど、初めから出ていた。いい後輩でいたかったが、もう限界が近いことを、誰に教えられるのでもなく悟っていた。
いい後輩だと思っているなら大間違いだ。恋する心はどこまでも貪欲で、エゴイズム。男と女を意識したら最後。
欲しいなら、その心を、その唇を、その体を奪ってしまえばいい。
「先輩……」
青は未里の背後から迂回して向かいの席に腰掛けると声をかけた。未里は「ん?」と声を上げてから顔を上げて青を見た。黒い瞳が何のためらいもなく青に向けられている。その瞳がどんな風に揺らぐのか、その唇がどんな甘い声を漏らすのか、自分が知らない彼女を千川は知っているのだと思ったら、これから起こそうとしている行動に対してのためらいも自然と消えた。
青はそっと口の端を引き上げた。未里に気付かれぬよう……。
「何か……目にゴミ、入ったみたいなんスけど」
青は軽く目を押さえながら、俯いた。青は決して口数の多い後輩ではない。それだけに、未里が真剣に対応してくれることなど容易く予想できた。
案の定、未里は心配そうに眉尻を下げて席を立つと、青の隣の席にやって来て座った。見せて、という感じで、目を押さえる青の手に自分の手を伸ばす。青が促されるままに手を退けると、何の躊躇もなく顔を近づけてきた。
「痛い……かな?」
綿毛みたいに柔らかな声が青の心をぎゅっと掴んだ。後輩としてじゃなく、好きな人として心配して欲しい。全身で自分を見て欲しい。今すぐ彼女の全てが欲しくて、そのもどかしさにどうしようもなく心が急いて、青は無意識に未里の手を掴んでいた。
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