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想う数だけ





 忘れる、忘れる、忘れるんだ……。
 そう思うほど、君が好きになる。君以外、見えないの。


 強い陽射しがテニスコートを照りつける。午後三時五十分。夏、夕方に差し掛かる手前のこの時間は、唸るような暑さだった。
「おーい、矢崎やざき。今のアウトか、インか〜」
 武志がネットの向こうのコートからラケットを振りかざした。ボールは音を立てて金網のフェンスに当たり、力なく落ちる。今まで武志と打ち合っていた青は、ラケットを使って落ちたボールを器用に拾った。
「先輩、残念っスね。ア、ウ、ト」
 青はからかうように言葉を返すと、サービスを打った。ボールは鋭い弧を描いて相手のコートに叩き込まれる。武志が口笛を吹き鳴らして軽々とリターンをした。それに対して、青もまた打ち返す。心地よいボールの音が途切れることなくコートに響き渡った。

 二年の武志と一年の青は頭一個分の身長さがあり、二人が並ぶと一年という月日に起こる男の子の成長のすごさを感じさせられた。武志はそんな青を弟のように可愛がって接していた。打ち合いをして、その度に青が腕を上げると本当に楽しそうな顔をして青の頭をぐしゃぐしゃに撫で、笑う。
 そんな可愛い後輩が、まさか自分の彼女に手を出しているなど、きっと夢にも思っていないのだろう。だから、青と未里を平気で二人きりにできるのだ。武志は用事があって帰りが遅くなる時、必ずと言っていいほど未里を送る役目を同じ方向の青に頼む。未里も青が嫌いではなかったし、青は口数が少ないながらも、怖いもの知らずで飄々ひょうひょうとした雰囲気があり、そんなところを生意気で可愛いと思っていた。
 しかし、そんな可愛い後輩は、生意気という境界を超えて未里に男として迫ってきた。もう5日も前のことなのに、未だにあれは夢だったのか、現実だったのか区別がつかない。
 なぜなら、あれから青は普通すぎるほど“年下の可愛い後輩”に戻ってしまったのだ。
 未里は少し遠くのフェンスに寄りかかって、作業の合間に二人の打ち合いを見ていた。武志のフォームが綺麗なのは言うまでもない。しかし、さっきから目に入るのは青の姿ばかりだった。ラインギリギリのボールを追いかけて青が走り込む時、未里は無意識に届いてと願ってしまう。武志よりも青を、彼氏よりもただの後輩を応援してしまうなんてどうかしている。目を逸らそうと思うほど、吸い寄せられるように青を思って胸が苦しくなるのだ。

 きっとあれは魔が差しただけなのだ。青も気まずい思いを抱えて後悔をしているはずだ。だから、なかったことにしようとして誤魔化すため、ただの後輩のようによそよそしい態度を見せるのだろう。未里は幾度となくそう思い直して、青のキスを忘れようと決めた。
「よーし、ラスト1ゲームで休憩だ」
 武志がコートに響き渡るよう大きく声を上げた。今日は放課後の進路説明会に参加して部活に来られない3年生に代わり、武志が部を任されていた。それは、次期部長候補をも意味する。
「おーい、未里」
 武志が未里に向かって手招きをする。青が未里を見た。未里は心臓が跳ね上がった。全身にドキドキが広がって周りが見えなくなる。ダメ、忘れると決めたのだからと、未里は青を視界に入れないよう心に決めて武志のもとに駆け寄った。
「みんなのスポーツドリンク頼むな!」
 武志の唇が豪快に言葉を発する。その唇に引き付けられて、未里は返事をすることを忘れてしまった。武志とのキスが思い出せない。少なくとも、両手の指の数以上はしたはずだった。それなのに、どんな感じだったのか、キスした時の記憶は蘇っても感触だけは穴が空いたように綺麗に消されていた。いつだって、青の熱いキスが頭を支配して離れない。たった一回の、強引で、乱暴なのに、優しいキスを……。

「おい、なあ、聞こえてるのかー?」
 武志の声にはっとして未里は慌てて返事を返す。
「あ、うん、ごめん。スポーツドリンクだね。オッケー、任せて」
 未里ははぐらかすように笑った。武志は未里の変化に少しも気付かない様子で笑う。
「お前ってホント危なっかしいよな〜。ぼーっとしてっと、また転ぶぞ」
「え、えへへ……」
「なあ、矢崎。お前もそう思うだろー」
 未里は笑う頬を強張らせた。思わず、青を見る。青は俯きがちに立って、ラケットの先を地面に着けくるくると回転させていたが、武志の呼びかけに手を止めて顔を上げた。黒い髪が陽射しで艶を帯び、さらさらと崩れる。猫みたいに大きな瞳が開かれて、そのガラス玉のような黒い瞳は綺麗で透き通っているのにどこか妖艶だった。
「そうっスね。香月先輩、ホント危なっかしくて……」
 そこまで言うと、なぜか青は一瞬間を空けて未里と目を合わせると、上目遣いの眼差しを鋭くさせてそっと悪戯に微笑んだ。
「……目が離せないっスね」
 未里は目が逸らせなかった。心臓がぐしゃりと甘い痛みを残して潰れてしまった気がした。

「おいおい、後輩にも心配されてるぞ〜」
 武志の冗談さえも耳には届かない。忘れると決めたのに、思うほど好きになっていく。武志が嫌いになったわけじゃない。でも、あのたった一回のキスは、未里の心を全て溶かしてしまった。武志以上に青が好きで苦しくて、心臓を切られるような甘い痛みが全身を襲って、今すぐキスして欲しい。好きって側で囁いて欲しい。青はもう、未里にとって可愛い後輩以上の存在だった。なぜ、たったの5日でこんな気持ちになってしまったのか、どうしてこんなにも青に惹かれてしまうのか自分でも分からず、周りも自分の心さえも見えない。この暗闇に染まる恋の世界には、もはや青と自分しかいないのだ。
 未里はようやく青から目を背けると、武志を見た。言えそうになかった。今のこの自分の気持ちを告げることなどできなかった。何も知らない武志に何と言えばよいのだろうか。目の前で青と笑い合っている武志の屈託のない笑顔が、まるで遠まわしに責められているようで居たたまれなかった。キスされたから好きになったなど、言えるはずもない。まして、別れの理由を切り出せば怒りの矛先が青に行くのは必然で、そんなことは悲しくて嫌だった。もしかしたら青は部活を辞めることになるかもしれない。青にとっては一時の気の迷いが、自分のせいで迷惑をかけてしまうことになるのは避けたかった。
 やっぱり忘れた方がいいのかもしれないと、未里は悲しく思った。いい先輩として、ぬるい関係を維持して、青を忘れるのだ、と……。





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