二言目が出ず、眉をひそめて見つめていると、父が頭の後ろをさすりながら言った。
「いやあ、彼は、その、つまり」
そう言って、ははは、と力なく笑っている。よく見れば、穏やかだと思っていた父の笑顔はどことなく引きつっていた。頭の後ろを掻くのは、どうやら
笑い事じゃないでしょ、と依緒は心の中で叫んだ。運良く歯磨きと洗顔は済ませたものの、着ているのは着古されたパジャマだった。鮮やかな赤い色をしていたチェック柄は、今や
「いいよ、
ぼそりと呟いた声はどことなく沈んでいた。それはやはり紛れもなく男の声だったが、渋みのない、すんと通った声質に、年の近さを感じた。
「だがな、
父は一変して堅い口調で言葉を返す。目に鋭さが宿り、表情が締まった。
「ホテルにでも泊まりますよ。どうせあんなの、でっち上げだし。そのうち忘れられるって」
「この世界でスキャンダルは命取りだ。嘘だろうが、本当だろうがな。刺激に飢えた奴らは面白おかしく書き立てる」
父の喉仏が激しく上下する。普段あまり父と一緒にいないせいか、こんなにも真剣な父の顔は見たことがなかった。依緒は訳が分からず、はらはらしながらその様子を見ていた。母は言葉を挟む様子もなく、依緒の隣で静かにお皿を並べている。
「しかも、相手は5つ年上の人気女優だ。広い層から支持を得ている。下手すりゃお前が潰されるぞ」
「けど、ここにまでマスコミが来たら」
「大丈夫だ。俺が全力で逃げ切ってみせるから、お前は安心してここにいろ。バレやしない」
女優、マスコミ、潰される。尋常ではない言葉の数々は、依緒の頭をますます混乱させた。そのまま目を見開いて突っ立っていると、ふいに父が依緒の方に振り返った。思わず息を詰まらせたが、なぜか父の表情から先ほどの厳しさはすっかり消えていて、へらへらと気まずそうに笑っていた。
「そうゆうわけだから、しばらく頼むよ。依緒、母さん」
「えっ?」
事態が飲み込めない依緒に対して、母は困ったように笑っていたが、それは許しの証拠でもあった。テーブルの上を見ると、いつの間にか朝食の用意が一人分増えている。それを見て、依緒はようやく理解した。頼むということは、つまり家に
そんな日々を想像しただけで、拒絶感が稲妻のように体を駆け下りた。危険だ。何がどうなろうと危険すぎる。どうして母は反対しないのかと不思議に思ったが、もしかしたら父のこうゆう突発的なところは母にとってもう慣れっこなのかもしれない。学生時代からの付き合いだと聞いているから、おそらく何度も衝突と和解を繰り返してきた結果、お互いの事は自分自身のこと以上に分かるのだろう。
「私は反対だよ。知らない人がうちに住むなんて」
冗談じゃない、こんな怪しい人。依緒は男を軽く睨んだ。
「う〜ん、まあ、そこを何とかさ。頼むよ、依緒。ほ、ほら和泉、お前もなんとか言ってくれ」
父はあたふたしながら、隣にいる彼の背中を叩いた。男は力なく立ち上がると、長い指を頭にやって黒いフードを脱いだ。明るめの茶色い髪がのぞく。ワックスでしっかりセットされ、耳のあたりで毛先が少しはねている。
「すいません。ご迷惑おかけします」
そう言って、深々と一礼した。そして、次に彼が顔を上げた瞬間、依緒は目を見開いた。
「あ、あ、あ」
喉から飛び出すのは頼りない声。頭の中が完全に真っ白になった。何で、どうして。疑問符が脳裏を埋め尽くす。続いて、顔から見事に血の気が引いていった。
「あらあら、まあまあ」
母が嬉しそうに微笑む横で、依緒は忘れかけていた父の職業を思い出した。
「や、やしっ」
「
依緒の絶叫が、青い空に響き渡った。
思い出した父の職業。
そうだった。
父は、マネージャーだったのだ。
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