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内緒の関係
【secret.13 溶け出していく】




「戻れなくしたのは、そっちでしょ」
 依緒はまつ毛を伏せて視線を落とした。寒さで冷えていた陽介の手がだんだんと馴染んで温かくなっていくのを指先から感じる。こうして繋いでいるだけでドキドキして、きつく縛られた心のひもが緩んで、空気を含ませたようにふわりとほどける。心が忙しく音を刻み、それが全身に広がっていくのを抑えることができなかった。
 依緒は、雑誌をそっと目の前の棚に戻した。和泉の笑顔を目の前にして、祈るような気持ちでその表紙を見つめる。この前のように、手を引いて陽介の前から連れ去ってくれたらどんなにいいか。力強い指に握り締められたらどんなに安心することか。
 でもその笑顔からは、微かな声さえ聞こえてこなかった。何万人という女の子がきっと、毎夜この切ない想いに身を濡らすのだ。目の前に確かにいる大好きな人は、一言だって自分に答えてくれない。寿命が縮んでもいいから会いたいと願っても、その願いが叶うことはない。皆、現実と夢の間で揺れて、募るばかりで返されることのない想いに苦しみ、泣いて、自嘲して、また泣いて、そして白々とした朝が来る。
 和泉はいつも、届かない存在だ。

 依緒は微かに息を吸い込むと、口を開いた。
「どうして今さら言うの」
 感情的にならないよう喉元を意識して声を出そうと思うのに、散漫になって調整できそうにない。陽介がこちらに向く気配がしたが、依緒はあえて動かなかった。目が合えば、また何も言えなくなってしまう気がする。目の前の和泉から顔を逸らさないことが依緒を支えていた。

『キスマークつけたやつのこと、まだ忘れられない?』
 和泉の顔を目の前にして、ふいにあの夜の和泉の声がリフレインする。忘れられるわけがなかった。本当に陽介が好きだったから。傍にいて、他愛もないことを言い合って、それだけで溶け出してしまいそうになる幸せな気持ちがあることを教えてくれたのは陽介だった。側にいても離れても、ずっと依緒の心を捕えている。自分から別れを告げておいて何度後悔したか分からない。声を聞くだけで涙が出そうになる気持ちは、もう二度と知ることはないと思っていた。
 和泉……と、依緒は心の中でぽつりと呟いた。自分はいつも中途半端だ。陽介の想いも振り切れずに、一方では和泉を曖昧に受け入れている。でも、いつも確かな言葉をもらえないから、その度に心が重く沈んでいくのだ。「好きだ」と一言でいい、真っ直ぐに誠実に言ってもらえたなら、きっと一生分の涙を流してしまうだろう。それなのに、どうしていつもその一言をもらえないのだろう。蜂蜜のように甘い、その囁きを……。
 何かが依緒の頬を滑り落ちて、マフラーの生地に雫が伝った。それが雨でも雪でもないことに、依緒は気付いていた。けれど、意思いしとは別に溢れてきてしまう理由までは自分でも分からなかった。苦しくて、逃れる方法も分からなくて、深い井戸の底にずっと落とされている。

 陽介は手を繋いだまま依緒を引いて歩き出した。戸惑う依緒の前には、言葉を失くした背中だけが広がる。依緒は引っ張られるように後ろを歩いた。
 コンビニのドアが開き、また刺すような寒さが頬に触れる。天使が羽を落としていくように雪が真っ白な空から漂い落ちて、息を呑むほどの白銀の世界が目の前に広がった。
「陽介っ」
 名前を呼ぶ息が白く上がった。雪が肩に、髪に、コートに落ちる。繋いだ手のぬくもりがやんわりと沁み込んで、妙に温かく感じられた。自分の口から紡ぎだされた愛しい人の名前は、甘く糸を引いて依緒を昔へと引き戻す。
 陽介は暫く歩くと立ち止まり振り返った。そのままじっと依緒を見る。いつものだるそうな感じともあざけるような態度とも違い、張り詰めた糸のように真っ直ぐな感情が伝わってきた。
「お前、何で俺のこと無視してた」
「え……」
 ぴりぴりとした空気が伝わって、依緒は思わず息を呑んだ。声が喉の奥でひっかかる。見たことのない陽介の表情に驚くばかりで思考がうまく働かない。手は繋がれたまま、距離をとることさえできない状況に、心臓の速さが増した。
 雪は二人を白に染め上げようと降りそそぐ。頑張って同じ色に染めようとするのに、かけらは積もったそばから布地に染込んで消えてしまうのだった。

「いいでしょ、もう……終わったことじゃない」
 苦しさのあまり早口で言うと、依緒は俯いて斜めに顔を逸らした。早く手を放して欲しかった。もう過去を考えたくない。裏切られたあの日を、あのキスシーンを。だから陽介を無視して、そうすれば心から消せると思った。問い詰めて陽介の口から弁解などされたら、遊びだったと面と向かって言われた日には、自分の愚かさと耐えがたい惨めさに潰れてしまうから、無視することが精一杯の抵抗だった。
 陽介は皮肉っぽく空笑いをすると、顔を上げた依緒の瞳を黙って見据えた。繋いだ手に力が加わった気がして、依緒は微かに瞳を揺らした。
「終わった? ふざけんなよ。終わるどころか始まってもない」
「どうして。だって陽介は、陽介はあの子を、選んだじゃない」
 依緒は唇を固く結んだ。あの時のキスシーンが拒否するほど鮮明に蘇ってくる。涙なんてもう枯れてしまった。泣いて泣いて、それでもあの時の苦い思いだけは流れてはくれない。もう二度と口には出したくないと、無理矢理閉じ込めた思い出は、あっさりとじょうを弾き飛ばして箱から溢れ出てしまった。
「それ、世理せりのこと言ってんの」
 陽介の問いに、依緒は反応しなかった。決定的な名前に胃が重たくなる。高丘たかおか世理は、例のクラスメイトで陽介のキスシーンの相手であり、元彼女。あの修羅場を繰り広げた女の子だった。

「もうイヤなの、陽介のそばにいると苦しいの。私は陽介しか見てなくても、陽介はいつも、他の子と……」
 話すうちに少しずつ心のネジがゆるんで、押し込めていた言葉が次々と口先から出ていく。いくら陽介を無視しても、このドロドロとした感情は一向に消えてはくれなかった。募るばかりで飽和して、今か今かとくすぶり、突い出てくる。
 依緒は陽介の手を強引に振り払った。
「自分が惨めで、私ばっかり片思いで。あの時の私の気持ちが分かる? すごく痛くて、心が裂かれちゃうみたいだった」
 依緒はそこまで言い切ると鼻をすすった。急に寒い所に出たからか、それとも泣いているせいかよく分からない。陽介は黙ったまま何も言わなかった。帰るにも足が動かなくて、沈黙をぼかすように鼻のすする音だけが時折続いた。指先から足先から、寒さに感覚がなくなっていく。呼吸するたびに白い息が立ち昇った。







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