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「分かってないのは、お前の方だ」
 陽介が静かに呟いた。感情を抑えたように低く、掠れた声。
「俺の噂、何だっけ」
「え……」
「言ってみろよ」
 陽介は顔を上げて瞳を鋭くさせた。見たこともない真剣な表情に、依緒は息を呑み、内心たじろいだ。慣れないことに戸惑ってしまう。陽介らしくない。いつもどこか自信のある素振りで、依緒が一方的に別れを告げたときも何一つ言葉を返さなかった。
 そう、陽介は去るものは追わない。
「あ……」
 依緒が思いついて小さく声を上げると、陽介は静かに言葉を続けた。
「それなのに、どうしてか分かんねえの」
 依緒は俯くと何も言えず押し黙った。分からないわけではなかった。でも、もし浮かんでくる答えが正しいならこんな事態にはなっていない。選択肢なら真っ先に打ち消す答えだ。
すると、陽介は何も言わずゆっくりと依緒の手を引いて歩き出した。依緒はまた引っ張られる感じに歩き出したが、先ほどの強引さとは違い、陽介は依緒に合わせて歩調をとっているようだった。
 住宅街に沿って、真っ直ぐに伸びた道を歩いていく。狭い一方通行の道に、車通りはない。歩く度に、雪を踏む鈍い音が微かにして、依緒は顔を上げるものの、陽介の背中に何と声をかけてよいのか分からずに俯いた。降りそそぐ雪のかけらがまつ毛に触れる。

「世理、俺とお前のこと知ってたんだ」
 背を向けて歩いたまま、陽介が言った。信じられない言葉に、依緒は弾かれるように顔を上げた。顔が青ざめ、心がすくむ。
 気付かれていないと思っていた。実際、気付かれないようにしていた。三年生になってからは教室の階が違い、顔を合わせることも滅多になく、時々遠くから見かけるくらいだった。二年生の時もそんなに親しくはなく、もともと友人のグループが違うというか、教室でも必要以上に話すことはなかった。
「うそ」
「帰るところ、偶然見たって」
「でも、私、高丘さんに何も言われてないよ」
「当たり前だろ。お前といる時は、あいつと切れてたし」
「え?」
 依緒は絶句した。陽介の言葉が素直に汲み取れない。切れているはずがない。キスしていたところをはっきりと見たのだから。
「だってキス……」
 依緒がそこまで言いかけると、陽介は足を止めて振り返らずに言った。
「やっぱそれかよ。あれは、キスしてくれって言われただけ」
 陽介はゆっくりと振り返った。先ほどとは表情が違い、威力が抜けてしまったように無表情だった。
「あいつ、別れようって言っても、理由が分からないって言い張っててさ。そのうちお前と俺の関係知って、お前の目の前でキスしたらしつこく付きまとうのはやめるし、内緒にするって言ってきてさ。俺、軽く考えてた。たったの一回で終わるならって思って、目の前で見てるお前の気持ち、軽く考えてたんだ」
 陽介は大きく息をつくと、視線を落として声の調子を弱めた。依緒は呆然と見つめ返すしかなかった。陽介の言葉のどれもが信じられない。それどころか、今目の前にいる陽介自体が依緒には信じられないものだった。いつも、優しさの中に冷たい氷を持っているのが彼だった。
 陽介の髪の毛が溶けた雪でしっとりと濡れている。それは、彼の中の氷が溶けてしまったように思えた。濡れて佇む陽介は、今にも抱きしめてあげたくなるような弱さが輪郭から滲み出していた。
『ちょっと付き合って』
 そう言って乱暴にキスをした、あの夏の日の陽介を思い出して、そんな過去の陽介がどこか作り物のようにさえ思えてしまった。

「ま、結局はあいつの思惑通りになったんだろうけど。けど、俺もあの時はお前が離れていっても簡単に吹っ切れると思ってた。いつもと同じで、空気みたいになかったものにできるって。それで手当たり次第付き合ったけど」
 そこまで言って、陽介は口を閉ざした。形の良い薄い唇が寒さで色を失っている。
「お前が男と歩いてるとこ、見た時に分かったんだ」
 陽介は話しながら何度も間を空けて、その姿はためらっているようにも、戸惑っているようにも見えた。
 そして、一番長い沈黙の後、陽介は声を堅くして静かに言った。
「俺、依緒じゃなきゃダメだ」
 陽介は依緒の体を引き寄せた。依緒は考える間もなく陽介の胸に倒れ、呆然とするまま抱きしめられる。濡れたコートの布地が頬に触れ、ひやりとする。陽介は、もう片方の腕を背中に回して強く抱きしめた。

「ごめんな」
 教室の時と同じ口調で、陽介は静かに耳元で囁いた。
「俺、本気だから」
「よう、すけ」
「本気で依緒が好きだから」
 依緒は耳を疑った。嘘だ、と心の中で何度も問いかける。付き合ってる時に言われた「好き」はいつも重みが軽かった。自分ばかりが持て余していた言葉だった。ところが、今、陽介が囁く「好き」はあの頃とは違って聞こえた。
 依緒は顔を離して、見開いた瞳で陽介を見つめた。陽介は黙ったまま、依緒を見つめ返す。冗談という言葉はひとかけらも感じられない視線だった。
「嘘、でしょ」
 口からついて出た言葉は、思いとは逆のものだった。嘘じゃないことくらい聞かなくても伝わってくる。それでもどこか夢を見ている気分が拭えなかった。

 依緒は見上げていた視線を落として伏せた。頭がまとまらない。思考が真っ白になって、別の世界に吹っ飛んでしまったようだ。予想もつかない出来事の連続に頭がパンクしてしまう。現状を把握しようと必死で考えを巡らせている依緒の頬に、そっと陽介の手が触れた。手の動きに促されてか、それとも自分の意思かも分からずにゆっくりと顔を上げる。
 見つめ合う時間が永遠のように思えた。ゆっくりと舞い落ちる雪のせいか、流れる時間がゆったりと広がっていく。
「好きだ」
 掠れた二度目の囁きは、甘い痺れを依緒の体にもたらした。もし今が冬ではなかったら、と思う。冬は、人との距離を近くさせてしまう。寒さは、目の前に潜む危険さえ霞ませてしまうのだ。
 こんなにも寒くなかったら、陽介の温もりがこんなにも心に沁みることはないかもしれない。この腕を、あっさりと振り払うことができるかもしれないのに……。しかし、そんなことは無理な話だった。

 冷たい唇がそっと触れて、依緒は静かに目を閉じた。そのキスに、少しの罪悪感を残して……。







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