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内緒の関係
【secret.14 声】




「依緒、受験票は持ったわね」
 玄関でローファーを履く依緒の背に母が呼びかける。廊下を小走りで玄関までやってくると、水玉色のお弁当袋を差し出した。
「はい、今日はさっぱりヘルシーなチキンカツよ。頑張ってね」
「“勝つ”か。うん、まあ、やるだけやるから」
 依緒は母の手から弁当箱を受け取ると鞄の中にしまった。参考書に加えて弁当の重みが依緒の肩に圧し掛かる。大学はいくつか受ける予定だが、今日受けるM大は依緒の第一志望校だったので余計に緊張感が増した。
「じゃあ、行ってくるね」
 母に手を振って玄関のドアを開けると、冬の朝独特の凛とした寒さが全身を包んだ。寒いのは苦手だが、冬の朝は慣れてくるとすがすがしい。大通りに出ると、依緒と同じように強張った面持ちの学生が白い息を乱しながら駅へと歩いていた。参考書と睨めっこしている者、単語帳を見ながら声に出して発音していることに気付かない人、MDを聴いて気分を紛らわせている者。
 依緒もまた最後の追い込みで『英単語・英熟語パーフェクトBOOK』を片手に歩いていた。
「dilemma。ジレンマ、板ばさみ。二者のうちどちらを選んでも問題がある、か」
 白い息が長く吐き出され、依緒の目線がその単語でとまる。板ばさみの状況は少しだけ自分に似ていると思ったが、一方で違うような気もする。陽介には好きといわれたが、和泉には言われていない。そもそも、自分にとって和泉は何なのだろう。そして、和泉にとって自分は何なのだろう。
 そこまで考えて、依緒は打ち消そうと歩く速さにスピードをのせた。

 キスなんて、好きじゃなくてもできる。和泉はきっとからかっているだけなのだと、何度も思い直して言い聞かせた。初めから別世界の人で、またいなくなる。かぐや姫だって月に帰ってしまったではないか。依緒は古典で習った竹取物語を思い出した。かぐや姫は大好きなみかどに不死の薬を与えて月に帰る。でも、帝が欲しかったのはかぐや姫自身なのに。好きな人のいない世界で長く生きて、何の幸せがあるのだろうか。かぐや姫は自分の世界を選んだのだ、愛する人よりも……。
 依緒は、受験とは関係のない方向に逸れてしまう自分の思考を戻そうと再び英単語帳に目を向けた。しかし一向に頭に入ってこない。このままでは落ちる、なんて嫌な単語が頭をかすめて青ざめる。今は受験に集中しなくては、と考えるほど不思議なもので逸れていった。
「和泉のせいだ、バカ」
 依緒は立ち止まると大きな看板を見上げた。ビルに大きく取り付けられた看板には、和泉と女優の相良レイが写っていた。依緒が受験を終えて卒業する頃に公開される予定の映画の看板だ。前に台本を見せてもらった例の義姉弟モノ。
 あの時と同じことを、和泉はこの人にもやったのだと思うと苦いものが心に広がる。あんな風にキスをして、服を脱がして、それでその先は……。
依緒は眉を寄せた。

『俺とあんたは、あまりに距離が近すぎて、恋することさえ……叶わないんだ』
 映画の切なさを表すキャッチコピーが載っている。和泉が後ろから姉役の相良レイを抱きしめて前を見つめている。カメラ目線なのは仕方ないが、まるで自分の方を見ているようで心が痛んだ。この手に抱きしめる人を誰にも渡さない、そう感じさせる強い眼差しは例え演技であろうと快いものではなかった。
 無意識に、手をゆっくりと看板へ伸ばす。精一杯腕を伸ばしても、はるか上空にある和泉の顔は遠い。届かない。掴めない。冷たい空気だけが指の間をすり抜けて、依緒は力を抜いて手を下ろした。
 春になったら、夢だと思っていた現実は、また夢に戻る。世界はまたいつものように歯車を回して動くのだ。そこに、和泉はいない。
「寂しいのは普通の感情、恋じゃない」
 何かがいなくなるということは、心ごともぎとられてしまうことだ。そこだけ空洞になる。けれど、空いた部分だっていつかは埋まる。新しいもので満たされる。
 依緒は冷えた指先に息をかけて温めると、また歩き出した。一歩一歩踏みしめる足に力を込める。和泉と過ごしたこともキスされたことだって、いつか思い出にするために今は前に進むことに頑張らなくてはいけないと自分の心に発破はっぱを掛けた。

 ブー。ブー。ブー。ブー。
 ポケットで携帯が微かに振動していることに気付き、依緒はコートのポケットの中に手を入れた。長く続く音に電話だと思い、ディスプレイを見ると点滅する非通知の文字。出ようかためらったが、しつこくなかなか切れないので怪訝な表情をしながら通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし」
 そう言うと、すぐ耳に入って来たのは誰かが背後で話しているような雑音だった。数人の男女の声が微かにする。
「あ、依緒か。お父さんだ」
 ふいに投げかけられた言葉に、依緒はすぐに返事ができず戸惑ったが、聴き慣れた父の声に懐かしくなって、依緒の声も柔らかく弾んだ。
「お父さん。誰かと思ったよ」
「依緒が今日は試験だって、今、母さんから電話で聞いて。すまないな、ずっと帰れなくて」
「いいよ、仕事なんだし。それに、お父さんがいても受かるとは限らないしね」
 冗談で少しだけとげを含ませた言い方をすると、電話の向こうで父が苦笑した。
「ははは、依緒は痛いトコをつくなあー。でも、応援してるからな。頑張ってこい」
 その声を聴きながら、頭の中には父の柔らかい笑顔を浮かんだ。うっすらと瞳を細めて笑う父の顔。少しも威圧的でない声に、依緒は緊張がほぐれていくのを感じ、先ほどまでの寂しいもやもやとした思いがいくらか晴れた気がした。

「まあ、頑張るよ。お父さんは今何してるの? 何だか後ろが騒がしいけど」
「ああ、今は撮影の合間なんだ。和泉のね」
 和泉、と言われて依緒の心臓が跳ねた。
「あ、そう」
 平然を装って言葉を返そうとすると口数が少なくなるのが自分の癖だと思いながら、依緒は冷静を取り戻そうと試みる。
「今、和泉に代わるから」
「え、いいってば」
 依緒は慌てて言った。今は和泉と話したくない。しかし、そんな依緒の気持ちも知らず父は続けた。
「でも、和泉が依緒と話したいって言ってるぞ。な、和泉」
 最後の方は和泉に呼びかけている様子で依緒は驚いた。すぐ傍に和泉がいたとは思いもしなかった。一応父は和泉のマネジャーなのだから、年中傍にいてもおかしくない。
 携帯を持つ手に力が入る。一週間会っていないだけで、どうしてこうも緊張するのだろう。声を聴きたいような、聴きたくないような複雑な思いが交差して、切るわけにもいかずに全身の注意が耳元に向けられていた。







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