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「付き合ってたなんて……嘘としか思えない」
 知香は手のひらを額に当てると、椅子の背もたれにドサリと音を立てて倒れた。めまいがする、そう言わんばかりのやや大げさな表現を依緒はただ見ているしかなかった。話そうと思っても、何を話してよいのか、何を話したくないのか複雑で、結局は口を閉ざしてしまう。それは陽介も同じようで、先ほどからマスターと知香ばかりが会話をしていた。
「まあまあ、知香ちゃん。人ってほら、色々あるから。依緒ちゃんだって言いたくても言えなかったのよ」
 カウンターの奥からなだめるようにマスターが微笑む。窮屈そうに蒸気を吐くやかんをコンロから外し、挽いた豆にお湯を注げば、次第にコーヒーの香ばしい匂いがゆったりと店内に広がっていく。どこか懐かしい香りに、少しずつ胸のつかえが取れていく気がした。
「でも、この二人、教室じゃ全然口きかないんですよ! お早うとか、じゃあねとか、挨拶さえしないし。もうホント赤の他人って感じで」
 知香は声を荒立てると、これ見よがしに依緒と陽介を指差した。陽介はカウンターの椅子に寄りかかって座っている。あまり関心がない様子で、何を考えているのか分からない。知香は大きく目を見開いたまま、話す勢いは衰えず、持て余す程のこの驚きをどう表現したらよいのか未だに戸惑っているようだ。しかし、それも陽介の女癖を散々非難していた知香にとっては当然の反応だった。

「でも、何で隠す必要なんか……」
 不満そうに呟いた知香の表情は、拗ねた口ぶりの奥にうっすらと影が落ちているように見えた。依緒は心臓を針で刺されたように感じた。本当に自分のことを心配してくれる親友にずっと嘘をついていた、そのことは逃れ難い罪だ。
 けれど、何度過去に帰っても、きっと言う事はできなかっただろう。陽介に恋をして、傷ついて、秘密の持つ甘さに浸って、本当に自分のことだけで精一杯だった。色々な想いが複雑に絡み合って、いつもギリギリの状態の中、独りで決断を下してきた。もうこうするしかない、こうしなきゃダメだ、こうすることがきっと正しいのだ。そう自分に言い聞かせる事でしか、前に進めなかった。陽介と別れると決めたあの時だって……。

 依緒が黙る一方で、ふいに陽介がぶっきら棒に言った。
「何で隠すって、当たり前だろ、俺が相手なんだから」
 依緒は陽介の方を向いた。その言葉からは自らを皮肉るような印象はなく、本当に当たり前のことを言う顔つきをしていた。おそらく、普通の人ならば当然のことのように受け流してしまう陽介の言葉だが、言葉に透けて依緒には陽介の心まで見えた気がした。依緒が余計なことを話さなくてもいいように、上手く逸らしてくれた。見えないところで先を考えてくれる。それを、一年前の自分は気が付けなかった。
「それはそうだけど……。というより、それが一番大問題よね! 依緒、何でよりによって日暮なんかとー。遊ばれて終わりじゃない」
「違うっ」
 思わず声が出て、依緒は自分でも驚いた。知香は言葉を詰まらせたまま、驚いた表情で依緒の顔を窺っている。
「あ、ごめん、急に」
 苦笑いを浮かべる余裕もなく、依緒は頼りない声で謝った。
 何が違うのか、本当にその通りになったというのに。色々と誤解があったとはいえ、お互いがお互いを信じられなかったのだ。けれど、知香の言葉を否定したのは自分が被害者と言われるのが嫌だったからじゃない。陽介を加害者のように言われることが嫌だった。少しの間だったけれど、陽介と近い距離で接してきた。不器用なところも、素直じゃないところも、意地悪なところも、優しいところも。どれとして欠ける事の許されない陽介の大切な一部分だ。長い人生のうちのたった半年間でも、一秒だって無駄に思ったことはない。

「秘密は甘くて苦いものよね〜。何かを隠すことは、同じくらいの犠牲を払うことでしょう。辛い気持ち、切ない気持ち、痛い気持ち……」
 マスターは空気の流れに沿って穏やかに言うと、間をおくように小さく息をついた。
「あたしだって、ほら、こんな自分をさらけ出せないのって結構辛いのよ〜。いくつになっても、自由に振舞えるもんじゃないわ、色んな考えが邪魔してね」
 マスターはおどけた調子で笑うと、カウンターの上にコーヒーカップを二つ置いた。陽介がそれを運んで知香と依緒の前に置く。どちらからもふわふわと優しい湯気がうっすらと立ち昇っている。
 一年ぶりのキャラメルモカだった。表面に微かな波紋が立っている。甘い香りに誘われ、その波に揺られて、魂が心の奥にある思い出の中へと旅立つような、じんと灼ける想いが胸に広がった。
 つうと目頭の奥が痛くなって、依緒は隠すように慌てて席を立った。
「ちょっと、トイレ、行ってくる」
「いってらっしゃいな。あ、石鹸がきれてたはずだから、陽ちゃん、先に新しい物出してあげてちょーだい」
「はいはい」
 陽介は立ち上がると依緒が歩く少し先を行った。二人、店の奥のトイレへと向かう。

「う〜ん」
 通路の奥へと消える依緒と陽介の背をじっと見つめながら知香は唸った。マスターが相槌を打つ代わりにそっと笑う。
「何か、未だに信じられなくて。だって、日暮と依緒ですよ」
 不貞腐れたように顎肘をつく。しかし、その険しい表情も少しずつ緩んでいった。
「……でも、どうしてだろう。こうやって改めて見てみると、二人が一緒に並んでるの、違和感ないんですよね」
 マスターはグラスを拭きながら、子供に昔話を聞かせるような優しい口調で言葉を紡いだ。
「あのね、少なくとも一年前は、あたしが見ている限り、依緒ちゃんは幸せそうだったわよ。ただ、依緒ちゃんと陽ちゃんの好きの重さが……スピードが、ちょっとズレちゃってただけなのよね」
 知香は何の反応も見せず、ただ座っていた。店内はまた静けさを取り戻し、流れるメロディがそのまま体に入って心の中に溶けていくような、不思議な一体感が生まれていた。
 やがて陽介が戻ってきて、マスターは何事もなかったかのように「陽ちゃん、ありがとね〜」と笑顔で呼びかけた。

「あ、携帯鳴ってる」
 テーブルの上で振動している依緒の携帯に気付き、知香が手に取った。サブディスプレイには非通知の文字が点滅している。そこへ、依緒が戻ってきた。
「依緒、携帯鳴ってるよ」
「え、ホント」
 依緒は足早に歩み寄ると知香から携帯を受け取ったが、非通知の文字を見てそのまま出るのをためらった。知香は「私もトイレ行ってくる」と言って、そのまま店の奥へと歩いていった。
 電話は、しつこく振動している。不審に思うものの、電話の長さから意外と知り合いかもしれないと思い、通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし」
 おそるおそる問いかける。悪戯だったらすぐに切ればいい。そう思っているうちに受話器の向こうから声が聞こえた。
「あ、依緒? オレオレ」
「え、……和泉!?」
 声をひそめると、名前が聞こえないように口の辺りを手で覆って話しかける。驚いたせいか、話す声が少し上擦ってしまう。どうして携帯番号を知っているのだろう。父から聞いたのだろうか。しかし、そんな疑問よりも和泉がかけてきてくれたことが何より依緒の心を躍らせた。
 寂しくないわけがなかった。本当は、和泉が家にいない生活に段々慣れてしまうことが怖かった。連絡の取りようもなくて、まだ出会う前のようにテレビを通してしか和泉を見れない日々が続き、近くに感じていたはずの存在がまた夢の中へ戻ってしまうような気がして嫌だった。

「あのさ、今、学校? ようやく撮影終わったから家に帰るつもりなんだけど」
「終わったんだ、お疲れ様。あ、今はね、友達と出かけてて」
 視線を上げると、陽介と目が合い慌てて逸らした。その強い眼差しになぜか心まで見透かされているようで、居た堪れない。和泉に、どこか言い訳をしているような変な気分になる。
「今日の夜は会えそう? まだいるの?」
「いる。なんと三日間オフ!」
「ホント!」
 思わず声を上げると、電話の向こうで和泉が「声でかいよ」と笑っていた。依緒は少し照れながら帰る時間を聞こうと口を開いたが、寸前で耳に当てた携帯電話を抜き取られた。
 驚いて見ると、携帯電話を手にした陽介は口の端を上げて静かに笑うと、そのまま携帯電話に向かって言った。
「友達と一緒なわけねーじゃん。もうちょっと頭使ったら? 彼氏サン」
 からかうように発せられた言葉に、依緒は呆然とした。何をされているのか、意識が追いつくまで時間がかかった。
「ちょっと」
 依緒が口を挟もうとする隙を与えず、陽介は言葉を続ける。
「ああ、それから。夜は会えないよ。つーか帰すつもりないし。これからどこ行くか、その意味分かるだろ」
「陽すっ……」
 叫ぼうとする口を、陽介の手のひらが塞いだ。目が合うと、陽介はまた悪戯に笑う。楽しそうな表情に見てとれるのは気のせいではない。
「止めたかったら、迎えに来いよ。S駅の傍の喫茶店『CLOVER』ってトコ。三十分だけ待っててやるよ」
 そう言うと、ディスプレイを折りたたんだ。パチンという軽快な音に、止まっていた思考が再び呼び戻される。

「……なんちゃって」
 陽介は悪びれもなくそう言うと、依緒に携帯を渡した。依緒は手のひらに渡された携帯をしばらく眺めていたが、やがて力を込めて強く握ると、陽介に向かって叫んだ。
「な、な、なんちゃってじゃなーい!」
 依緒の叫びに、マスターは噴き出して笑っていた。陽介は全く謝る様子がなく、依緒の言葉も受け流している。頭がぐるぐると混乱し、慌てて電話をかけ直そうと履歴を見て、依緒は愕然とした。
「ひ、非通知……」
 いつからか動き出した歯車は、もうどうやって止めたら良いのか、すっかりその軌道を失っていた。今日は厄日だ。世界の終わりだ。頭の中に渦巻く嫌な予感は、今や最高の域に達していた。







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