NEXT  BACK  内緒TOP  NOVEL  HOME




「それにしても驚いた。まさか日暮がバイトしてるなんて」
 知香は机の上に肘をつくと、顎の辺りで両手の指を絡ませて大きく息をついた。店内は黄色いランプに灯されて薄暗く、まるで昼を忘れた異世界のように、しっとりと落ち着いた雰囲気が時間の流れを緩やかにしていた。
「私もびっくりした、ははは……」
 それ以上の言葉が出ず、依緒は目の前においてある水の入ったコップ掴むと口に運んだ。氷の欠片が唇に当たり、冷たい水が喉をするりと流れていく。しかし、頭の中は煮えたぎるマグマのように沸々としていて、次の知香の言葉を待つ時間が死を宣告されるよりも恐怖に感じた。
 はっきり言ってヤバイ。この今の状況は、最悪最大のピンチと言っても過言ではない。卒業まで、あとほんの数週間。ゴールを目の前にしてバトンを落としたランナーはきっとこんな気持ちなのだろうと思いながら、依緒は全身が竦む思いで椅子に腰掛けていた。
 知香は脇に立てかけてあるメニューを手に取って一通り眺めると、ホットにしようか、ウィンナーコーヒーもいいかも、などと独り言を呟いている。依緒はほっと胸を撫で下ろしたが、それはほんの束の間の休息であり、実際のところ少しも落ち着けることはなかった。

「注文、決まったのかよ」
「日暮、あんたね、一応私たち客なんですけど」
 カプチーノ、と付け加えて知香は口をへの字に結んだ。その目からは火花が散りそうなほど強い視線が発せられているが、陽介は相変わらず涼しい顔で受け止めている。今日は学校に行ってきたのか、制服に黒地のエプロンを着けているだけの格好だ。白いシャツなのは構わないが、グレーにモスグリーンのチェックが入ったズボンは明らかに綾南学院の三年生とすぐに分かってしまう。
「つーかさ、こっちも一応、客選ぶから」
 目もくれずさらりと言葉を返すと、慣れた手つきで伝票に書き込んでいく。やる気のなさそうな態度は、バイト中であろうと変わらない。知香はキーっと金きり声を上げそうなほど顔を悔しさに歪ませて、「マスターが帰ってきたら言いつけてやる」と吼えた。
 知香のお気に入りであるマスターは、サンドイッチに使うレタスを買い足しに近くのスーパーまで行っているらしく、直に戻ると先ほど陽介が言っていた。しかし、できれば戻って欲しくはなかった。せめて、自分が帰るまでは……。

「……で、深山さんは?」
 依緒が顔を上げると、視線の合った陽介の目は微かに細まり、悪戯に染まっていた。白々しい口調に、依緒は言葉を胸に詰まらせる。わざとだ。絶対に、他人の素振りを楽しんでやっている。別に陽介に会いにきたわけじゃないんだから、と今すぐ叫んでやりたいのに、そんな気持ちは陽介を見るそばから吸い取られていく。意思とは逆に依緒は視線をゆっくりと落としながら、薄く開いた唇から細く言葉を発した。
「私は、キャラメルモカで」
「……だろうな」
 知香には聞こえないよう囁くと、陽介はカウンターの方に戻って行った。まだコーヒーの苦味を美味しいと思えなかった頃、いつもここに来ると甘いキャラメルモカを注文していた。すると、陽介は必ずと言っていいほど「太る」とけなしたが、依緒の時だけそっとキャラメルの量を少し多くして出していてくれた事を、後でマスターから聞いて初めて知った。
 「陽ちゃんは、依緒ちゃんが本当に好きなのね」とマスターにからかわれて恥ずかしさのあまり否定したけれど、心をくすぐるような幸せな気持ちが胸の中に溢れていて、誰よりも彼の傍にいようと心から思った。
 けれど、全ては一年前のこと。今ではコーヒーの苦味も少しは慣れてきた。コーヒーと同じ、恋は苦いものだと知ったからだろうか。苦いものも平気で受け付けられる、そんな大人の素振りを、コーヒーを飲むことによってしたいのかもしれない。それでも、別のお店でキャラメルモカの表示を見るたびに、心の奥がざわめいて小さく締め付けられた。

 ふと気が付けば、テーブルを見ていたつもりが、いつの間にか無意識に陽介の背を追いかけていた。腰の辺りで結ばれたエプロンの紐が、そのまま陽介のラインを露にしていた。少し痩せたような気がするのは、気のせいだろうか。
「かっこいいバイトが日暮だったなんて。依緒ごめんねー、変な期待させちゃって」
 知香も同じように陽介の背を視線で追いながら、顔の前で手のひらを合わせた。期待などしていなかったものの、知香の手前、依緒は気にしない素振りを見せるしかない。ただ、陽介に聞こえたかどうかだけが気になった。
「あーあ、早くマスター帰ってこないかなー」
 手持ち無沙汰にコップの水を揺すりながら、唇を尖らせている。依緒はドアの方を見遣ってから、そのままゆっくりと店内を見渡した。店内は依緒と知香と陽介の三人だけで、人が少ないのは一年前から変わらないらしい。机も椅子も、戸棚も変わっていない。変わったのは、各テーブルに生けられた切り花と、コーヒーのカップだろう。マスターは陶器を集めるのが趣味で、気に入ったカップを見つけては、買ってきてお店で出していた。
 マスターは元気だろうか。その顔をできることなら見たかったが、やはり無理な話だった。マスターに会うことは、イコール、依緒にとっての“終わり”を意味する。
 でも、時々思う。秘密にする事に、一体何の意味があるのかと。一年前の状況と、今の状況はもう違う。隠さなくてもいいはずなのに、別の何かが邪魔をする。陽介との関係を他人に知られることは、今の気持ちをも再確認させられることになる。
 今も陽介が好き? まだ許せない? それとも、もう……終わったこと?
 胸の中で誰かが問いかける。けれど、いつも答えられずに目を逸らしてしまう。答えられないのか、答えたくないのか。いつまでも曖昧なまま、逃げ続けようとする自分は、果てしなくずるくて嫌いで、いとおしい。

「日暮、お水、おかわりちょーだい」
 知香が空になったグラスを揺らして氷の音を立てる。カウンターで何か作業をしている様子の陽介は、無言のまま面倒くさそうに表情を曇らせたが、渋々水を注ぎにやって来た。
「へえ、何かホストみたい」
 グラスに注ぐ様子を一通り見て、知香が呟く。
「ほら、グラスを置く時、小指でワンクッションおいてるじゃない。それって音立てないようにでしょ。気付かない人は何とも思わないだろうけど、何かちょっと感心。あ、やっぱりそっちの経験も……」
「バーカ。マスターがこうしろって煩いんだよ」
「さすがマスター。それにしても、喫茶店でバイトなんて、あんたも案外マトモだったんだねー。噂が悪い分、見直したってゆーか。ねえ、依緒」
「え、あ、そ……だね」
 引きつった口元を何とか引き上げるものの、知香の目は誤魔化せなかった。
「何よ。何かさっきから変だよ」
 その言葉が矢となって、見事に依緒の心を突き抜けていった。知香は首を傾げて眉をひそめている。
「そ、そうかな。それよりさ、マスターもいないし、日暮くんも迷惑だろうし、とりあえず今日は帰ってまた今度来ない?」
「え、何言ってんのよ。もう注文しちゃったし。何で」
「だからさ、それは……。と、とにかく帰ろっ」
 とにかく今は時間がない。言い訳をするより先に、とりあえず知香の腕を掴んで、半ば強引に立たせようとした時だった。カランカランと涼しげな鈴の音が店内に響き渡り、スーパーの白い袋を下げた男が顔を覗かせた。白いシャツに茶色のエプロンを着ていて、骨太に見える中肉中背な体つき。短く刈られた黒髪には所々白髪が交じり、顎鬚がないのに渋い印象を与えているのはこの髪のせいかもしれない。

「たっだいまー。あー疲れちゃったわ〜。やっぱり年とると歩くにも体力が必要よね。陽ちゃん、聞いてよ。何とレタスがひと玉90円よ。ほんとラッキーだった……」
 主婦のような口ぶりで表情を弾ませる。外見とちぐはぐなオネエ言葉に、大抵の人間は度肝を抜かれる。
 久々に見るマスターは以前と変わらず、葉巻タバコが様になる容姿だった。これで、言葉遣いさえ違ったならば、素敵なオジサマそのものなのだが……。
 一応店では寡黙に微笑むイメージ通りのマスターを演じているが、今は陽介しかいないと踏んでうっかり口を滑らせてしまったのだろう。マスターはすぐに依緒に気付いたが、一瞬表情を強張らせたものの、その顔はみるみるほどけていき満面の笑みに変わった。
「依緒ちゃん」
 声の調子そのままに足を弾ませて歩み寄ってくる。しかし、依緒にはそれが恐怖に思えた。体に冷たい感覚が流れていく。知香は黙ったまま何も言う様子がなく、隣に立つ陽介からは小さなため息が漏れた。このままでは危ない。知香に聞かれる前に、何としても口止めをしなくてはいけない。とりあえず一度店の外へ出てもらおうと思い、依緒は声を上げた。
「マスター、あのっ」
「久しぶりじゃないの〜。もう! なによ、なによ〜。陽ちゃんと仲直りしたの? ね、復活したの? あ〜ん、あたし、やっぱり二人一緒が好きよ。陽ちゃんには、やっぱり依緒ちゃんよね」
 第一声は、見事にマスターに打ち砕かれた。何の躊躇いもなく発せられる言葉に、めまいがする。可愛らしいオネエ言葉さえ、今の依緒には地獄の審判のように聞こえた。もう、本当に終わりだ。取り繕うことさえできない。

「依緒……」
 静かに知香の声が流れてきて、依緒はゆっくりと知香の方に顔を向けた。やや俯き加減で座っていた知香は、ゆっくりと顔を上げる。その顔を見て、胸に詰まる嫌な予感が見事に的中したことを悟った。
「説明、してもらおーか」
 ニッコリと微笑んだ知香の顔が、どこまでも黒く見えたのは、後にも先にもこの時だけだった。







NEXT  BACK  内緒TOP  NOVEL  HOME

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送