玄関に着くや否や、依緒は鞄から鍵を取り出すと覚束ない手で慌しく鍵穴に差し込んだ。そして勢い良くドアを開けると、芳香剤の香りが微かに鼻を掠めたが、それよりもタイルの上に転がった少し大きめシューズが真っ先に目に飛び込んできた。
依緒はほっと胸を撫で下ろすと、全身の力が抜けてしまいずるすると崩れて壁に寄り掛かった。心臓が痛いくらいに苦しくて、胸元にそっと手を当てて、落ち着けようと呼吸を忙しなく繰り返す。額にはうっすらと汗が滲み、顔の周りが燃えたぎるように暑い。真冬というのに、寒さは少しも感じられなかった。
やがて、首からほどけかけたマフラーを抜き取ると、もう片方の手を壁に伸ばして着き、体を支えながらゆっくりと立ち上がり靴を脱いだ。
「おかえり〜」
リビングのドアを開けると
「た、ただいま」
息も途切れ途切れに肩を揺らして言葉を返すと、「顔、真っ赤」と和泉が茶化して、テーブルの上にあるペットボトルを手に取り、一気に喉へと流し込んだ。
「やっぱさ、迎えに行った方が良かったんじゃない、イロイロ」
ペットボトルの口から離すと濡れた唇を手で拭い、依緒の方にちらりと視線を投げかけた。挑発的な薄笑いに、面食らって思わず首を左右に大きく振ると、依緒はそのままため息をついて床に座り込んだ。
あの後、トイレから出てきた知香に急用が出来たと嘘をついて店を飛び出した。しかし、飛び出したものの、一体どこへ行ったら良いのか頭の中は相変わらずパニック状態で、そんな中、ふと和泉から父を連想し、慌てて父の携帯電話に電話をかけた。我ながら良い思い付きだったと冷静になった今は思う。電話をかけると、父はさっき和泉を家の前で降ろしたと言い、そのまま家に電話をしたら受け答えたのが和泉だった。
『もしもーし、深山ですが』
『和泉! さっきのは何でもないから! とにかく家にいて、どこにも出ないで!』
開口一番そう言い切ると、和泉の返事も聞かず依緒は電話を切った。そこからは時間との戦いで、和泉がずっと大人しく家で待っていることも信用できず、陸上部さながらの速さで走り続けた。火事場の何とか、というように、人間いざとなれば何でもできるものだ。そうして、走り続けて今に至る。
置いてきてしまった知香には本当に悪い事をしてしまったが、もともとマスターに会いたかった知香のことだから、さほど怒ってはいないような気がした。ただ、また嘘を重ねてしまったことを思うと、申し訳なく思った。それもこれも全部陽介のせいだと
和泉はソファの上でだらしなく座り、眠そうに
この間雑誌で見かけた時にはダークブラウンだった髪が、今日は見事に明るい。ハニーブラウンとはまた違って、夕方の陽射しに似た、少し赤みの含んだ明るい茶色の髪だ。髪型や髪の色だけでも雰囲気が変わり、会う度にどこか違って見えた。毎回、色んな角度から和泉の持つ魅力を眺めているようで、一段と華やかな和泉の姿は、見つめ続けるのも勇気がいるほど、完璧で眩しくて、そして遠くに感じられた。もう数ヶ月、この家に暮らしているはずなのに、庶民染みたリビングの風景に少しも溶け込んでいない。
それでも、和泉がこうしてソファに座っていると依緒は安心できた。
「帰ってきて平気だった? 何かさー、取りこみ中って感じだったじゃん」
「あ、うん。あれね、ホント冗談だから。友達と一緒だったし、たまたま会っただけで陽介とは……」
そこから先は言葉が出なかった。和泉に言い訳したところで何の意味もないのに、それでも誤解を解きたいと思っている自分が痛かった。もうすぐいなくなる和泉には関係のないことだ。
「依緒、ちょっとこっち来て」
依緒が黙っていると、和泉がソファから指先を微かに動かして呼んだ。目が据わっている、というより眠くてぼーっとしているという表現の方が相応しい。依緒は軽く返事をして立ち上がり、そのまま促されるようにソファの端に座った。
釈然としないまま横を向くと、和泉は体を依緒の方に倒し、そのまま何の
「え!? ちょっと、何してるのよ」
驚きのあまり、叫ぶ声もどこか上擦ってしまった。立ち上がることも出来ず、行き場のない手を宙に浮かせて心ばかりがそわそわと浮き立つ。和泉は閉じた目を少しだけ開くと、鈍い声で「眠いから寝かせて」と一言呟き、そのまま「ソファより依緒のが柔らかい……」とごにょごにょ語尾を曖昧にしてまた目を閉じてしまった。
「セクハラ発言! だから、何で私が……」
大きく叫ぼうとした声は、意外にも小さく収まってしまい、依緒は唇をつぐんで尖らせた。今度は枕の役でもやらせるつもりかと心の中で悪態を
一体、和泉は何を考えているのだろう。ドキドキさせて楽しんでいるのだろうか。依緒は、手を和泉に触れないよう脇に降ろした。
膝枕をするなんて初めてのことで、一体どうしたら良いのか分からず、無駄に全身に力が入ってしまう。和泉の頭がスカートの上にある。それだけで、死んでしまいそうなほど心臓が大きくなった。頭の中はもう自分のコントロールの
整った目鼻立ち。そこら辺の女の子よりも綺麗に見える肌。色味の薄い、口角の上がった悪戯な口元。そうやって一つ一つ、和泉の寝顔を見つめるうち、全身の緊張が少しずつほぐれていった。初めは、家族が帰ってきたらどうしようと焦っていた気持ちも、次第に影を潜めていく。こうして和泉の頭の重さをその肌で感じていると、穏やかで優しい気持ちが胸のうちに広がっていく気がした。
「好きな子に……してもらえばいいじゃない」
消え入るような声で、寝顔に問いかけた。胸が鈍く痛む。和泉の心地よい寝息が微かに聞こえ、指先でそっと髪に触れた。だいぶ染め直しているだけあって、髪質はさらさらというわけではないけれど、いつも良い匂いがしていそうな清潔感のある感じにまとまっている。こうやって触れていると、和泉も人間なんだなと妙に納得した気分になった。
愛人というのは、もしかしたらこんな気持ちなのだろうかと、少しバカなことを考えてみる。世界の違う人を好きになって、好きな人にはちゃんと生きている場所がある。それでもこうして、時々会いに来てくれる人を嫌いになれない。会えないからこそ、好きになってしまう。まるで悪循環の無限ループだ。
きっと、和泉には好きな人がいるのだろう。そうでなくても、和泉に相応しい相手は、向こうの世界にいる住人だけだ。相応しくない相手に恋をするのはルール違反。
けれど、それを秘密にするなら、胸のうちだけの内緒の想いなら、誰も
「本当に、ワガママで身勝手で、何考えてるのか分からないんだから」
寝ているのだから、このくらい言っても別に良いだろう。和泉には相当な被害を受けているのだから。依緒は頬を捻ってやろうかと思ったが、触れる寸前で指先を止めた。
本当は、もしかしたら和泉は来てくれたんじゃないかと心の奥で期待していた。だから、電話をする時、ボタンを押す事を一瞬ためらった。すぐに思い直したけれども、もしかしたら、もしかしたら、そんな単語が頭の中でちらついて離れなかった。
だから、家に帰って和泉を見た時、ほっとしたのと同時に、泣きそうになってしまった。ああ、やっぱり……と。
期待なんて、そもそも自分勝手な要望だ。それでも、期待は裏切られた瞬間、倍以上の痛みを伴って返ってくる。依緒は和泉の髪をそっと指先で梳きながら、じっと寝顔を見つめた。
「ねえ、和泉……」
そっと囁いて名前を呼ぶ。聞こえない程度に、聞こえないように。
「私のこと……どう思ってるの」
言葉に出した途端、胸が締め付けられるように痛んだ。曖昧だった気持ちが、急に輪郭を露にしていく。急に想いが溢れてきて、目頭の奥が微かに痛んだ。
言うつもりはなかった。けれど、そんな風に安心して傍にいられると、意地悪をしたくなってしまう。言っても困らせるだけの言葉を、ふいに言ってしまいたくなる。
依緒は手のひらで口を塞いだ。感情が高ぶって、泣きそうになってしまう震える口元を何とか押し止める。涙が流れないよう顔を仰ぐと、無機質な天井の白い壁がぼんやりと滲み出した。
どうしてこんなに切ない気持ちになるのだろう。和泉を見ると、心が痛くなる。胸が裂けてしまいそうなほど苦しくて、会う度に強みを増していく。
「何で泣くかな」
ふいに下からぼそりと声が聞こえ、驚いて
唇をうっすら開いて言葉を失っている依緒に、和泉は真っ直ぐに目を向けると濡れた頬に手を伸ばして涙のあとを優しく拭った。そして、そのまま首の後ろへ腕を滑らせると、依緒の顔を優しく引き寄せた。
抵抗はしなかった。ゆっくりと和泉の顔が近づいて、そっと唇が触れる。重ねるだけの短いキス。それでも、ほんの少し唇から伝わった和泉の温度が、心まで沁みてくるようだった。
「忘れた? 俺、前に言ったよね。どーでもいい女にキスなんかしないって」
近い距離で、和泉は目を合わせたまま続けて言った。先ほどまでの寝ぼけた声とは違う。
依緒は瞳を揺らした。こんなにも近くで和泉を見つめることは初めてだった。あまりに近過ぎて、吸い込まれてしまいそうになる。
「遠いと勝手に思うなら、もっと近くに感じれば? 触れたら意外と同じかもしれないじゃん」
依緒は泣き顔を微かに歪めて視線を逸らすと、唇を震わせた。
「よく……意味が分からない」
「意味を考えるから、臆病になる。……つまり、こーゆーこと」
依緒の頬に当てられていた和泉の手のひらは、そのままゆっくりと肌を辿って首筋の方へと滑り落ちていった。生温かい指先の温度がほのかにくすぐる。
「実際に確かめれば……自分自身で」
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