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 和泉はそのまま何も言わず、依緒を真っ直ぐに見つめている。薄茶色の瞳は透けているようで優しく綺麗だった。
 肌から感じる和泉の温度に、ふいに自分を委ねてしまいそうな衝動に駆られる。綿毛みたいに柔らかくほんのり沁みる温もりが心地よくて、少し怖い。全てを委ねるつもりはないと思いながら、触れる事はきっと全てを解放してしまうことだ。
「そうやって、いつも女の子のこと口説いてるんでしょ」
 濡れたまつ毛を指先で左右に拭うと、依緒は立ち上がった。同時に和泉が体を起こす。
 冗談で軽く交わそうと返した言葉は、思った以上に硬くなってしまった。心もとなくなって離れようとしたが、すぐに足が止まってしまった。右腕を掴まれて、引き止められる。しっかりと掴んだ力は緩まる気配がなく、ただ静かに壁時計が時を刻んでいる。
「そうやって逃げるのは、本気って言われるのが怖いから?」
 依緒は眉間を寄せた。背後から聞こえる和泉の声は変わらず優しいが、言葉が重く胸に響いた。唇を堅く閉じて俯くと、茶色い木目の床が目に入って、言葉が一向に頭に浮かんでこない。胸の辺りがもやもやと渦巻いて黒い煙が立ち昇り、思考を曇らせていった。
「本気も何も、冗談に真剣に答える方がおかしいでしょ」
 喉元の震えが、声にビブラートをもたらす。強い言葉を吐き出すほど、心が小さく縮んでいく心地がした。少しずつ閉じたドアを開かれて、支えを崩された天秤が不安定に揺れ始める。
「冗談だって思いたいんだ。……へえ、俺の知ってる依緒は、遊びでキスできる女の子じゃないはずだけどね」
 和泉の言葉に反応して振り返ると、和泉は依緒の手を掴んだままソファに座り、やや俯いて、視線を床へ落としていた。表情は見えないが、尖った空気が伝わってくる。
 依緒は掴まれていない手のひらをそっと握った。力を込めようとしても、込めたそばから逃げていくように指先が緩んでしまう。振り返るつもりはなかった。和泉の顔を見たら、それだけで張り詰めた気持ちが崩れてしまう。いつものように言葉で上手く丸め込まれて、自分でも知らない隠れた感情までも飛び出してしまいそうで怖かった。
 依緒は動く事もできず、再び俯いた。飽きもせずに茶色い床を見つめ続ける。こんな時に限って家には誰もいない。電話も無く、邪魔が入らない。本当に厄日だ。核心に触れる事ばかりが起こる。
 やがて数秒の時間を置いて、重く閉ざした唇を微かに開いた。
「……よく、分からないの」
 床を見つめたまま、一拍おいて言葉を続ける。整理しようと思っても、早々できる範疇のことではなかった。ただ、浮かぶ言葉を素直に紡ぐだけが精一杯だった。
「あ、のね、和泉のこと、嫌いといえば嘘になるし、傍にいると落ち着かなくなるし、離れていると……すごく寂しい気がする」
 見えない和泉の表情を窺いながら、依緒は眼差しに力を込めた。
「でも、どうしても和泉が芸能人だって事を考えちゃうし、傍にいる時間が長いほど不安は大きくなっていく気がして……。自分が飲み込まれちゃう様な、片思いみたいな恋愛の仕方はもう嫌なの。それに、陽介の……」
「好きだよ」
 話を遮った和泉の言葉に、依緒は顔を上げた。あまりに自然なトーンのせいで、聞き流してしまいそうだった。耳元でそっと優しく囁くような、緩い風に似た物言いだった。
「芸能人だからとか、そうゆう風にフィルターをかけて俺を見ないから。俺、依緒のそーゆーところ、好き」
 和泉はゆっくりと顔を上げると依緒の視線に合わせた。見上げた眼差しは真っ直ぐに、依緒の心へ伝っていく。そして、そのままゆっくりと立ち上がると、数歩歩み寄って距離を縮めた。依緒は胸の前で両手を握り合わせると、黙ったまま和泉を見つめた。
「いきなり信用なんてできないのは当然だし、怖いと思うのも普通だと思う。だから、少しずつ見てみたら? 今まで過ごしてきた事と、これからの事……」
 穏やかな口調で言葉を続け、和泉は口元を緩ませた。目尻がきゅっと細まって優しさの中に可愛らしさを見せる、和泉の笑い方だった。見ている方まで心を温かくしてしまう。この笑顔が、社和泉という男の子の持つ魅力なのかもしれないと思った。
「それにさ、少なくとも依緒は俺の事嫌いじゃないと思うんだよねー」
「な、何それ」
 言葉につかえると、和泉は小さく笑った。
「だって、依緒、キスするのは嫌じゃないって感じだし。女の子ってさ、嫌なヤツには触れて欲しくないもんだろ」
 和泉は納得させるように依緒の肩を優しくポンと叩いた。自然な流れに思わず頷きそうになり、依緒は慌しく首を左右に振った。
「それは、そうだけど……って、別に肯定したわけじゃなくて! え〜と、だからね」
 依緒は目を泳がせて必死に言い訳を探す。何か言葉を続けようとすれば忙しなく、焦燥感が強くなった。どうにか否定すべき反論を見出そうとするが、考えるほど言い訳のような気がして最後は言葉に詰まってしまう。いつの間にか袋小路に追い詰められてしまった鼠のように、恨みがましい目で和泉を見上げると、想像した通りの意地の悪い笑顔があった。
「ま、そーゆー素直じゃないところも好きだけどね。崩れていく依緒を見るのも楽しいし」
 語尾に音符を弾ませたような物言いで、依緒の頭をくしゃっと撫でる。和泉の手が髪の表面を滑らかに滑って、頬の辺りの髪を優しく梳いた。決して依緒を傷付けない和泉の手は、くすぐったくて優しい。
「ひどい」
 むきになって和泉の手を払いのけようとすると、それより先に頬に柔らかい温もりが軽く触れた。わざとらしく小さく音を立てて、和泉は唇を離す。依緒は見事に動きを止めて、正面に直る和泉の動きを視線でただゆっくりと追った。いつも、和泉の行動は先が読めない。唐突で、大胆で、ルール違反。けれど、どうしても憎めないのだ。
 目の前には、余裕な表情で笑う和泉の顔があって、テレビでは見れない、雑誌にもいない、社和泉がそこにいた。
「溺れない恋愛なんて、恋愛って言うの? 理性が働いたら恋じゃないし。てか、理性なんか持たせてあげるつもりもないけどね」
 依緒は何か言おうと口を開いたが、言葉にならなかった。そのままゆっくりと和泉の顔が近づいてくる。近づく距離に居た堪れなくなって目を閉じると、訪れた暗闇と同時に唇が柔らかに触れた。
 頬にそっと当てられた温もりを感じて、心地よい温度に気持ちさえ緩んでしまう。その緩みは閉ざした唇へと及んで、少しずつ花開いていく隙間から柔らかな愛撫が続く。優しさは変わらぬまま深くなっていくキスに少し息苦しさを覚えて、依緒はそっと背中に手を回した。
 確かに、和泉の言っていることに嘘は無かった。触れられるのが嫌じゃないから、こうしてキスを許してしまう。誰でもいいわけじゃなく、和泉だからだ。
 恋に踏み切れないのは相手が和泉だからだが、また、こうして恋を感じてしまうのも、相手が和泉だからだった。この矛盾した気持ちに、今は整理をつける余裕もないが、キスをする度に絡まった糸が解けていく。複雑だと思っていた恋は、実は単純なものなのかもしれないと思えた。和泉とのキスは、傷を癒すセラピーみたいに心地よい。
 和泉は角度を変えて続ける。ゆっくりと積み重ねるようなキスだった。依緒はキスの合間に目を合わせることが恥ずかしく、まつ毛は伏せたまま上げる事が出来ない。艶やかに濡れた和泉の唇が目に入る度、赤みを増して潤んでいくようで、頭の芯が熱く、熟れてどろどろと溶けていく感覚に襲われた。
 夕方の赤い陽射しがリビングの床に反射して、リビングをオレンジ色に染め上げる。息遣いに交じった声と、微かに鳴る水の跳ねるような音が耳に届く度、心臓の鼓動が大きくなった。
 強引だったはずのキスは、いつの間にか優しく変わっていた。いつからか思い出せないほど自然にそうなっていった気がする。もしかしたら、きっかけが強引だっただけで、行為自体は初めから優しかったのかもしれないとも思えた。心ごと掬い上げるような動きは、丁寧で優しく、溺れているという感じとは違う。傍にいても苦しくない。もし溺れているのなら、和泉の持つ空気に包まれて優しさに溺れてしまっているのだ。振り回されているのとも違う。和泉の空気の中には、ちゃんと呼吸のできる安らぎがあった。一緒に溶けているというのは、こういう関係を言うのかもしれない。
 社和泉の何を知っているのかと聞かれれば、きっと答える言葉は少ない。けれど、社和泉の知識はなくても、隣にいる和泉という男の子を依緒は知っている。優しくて、少し意地悪で、自分を好きだと言ってくれる。それで、十分だった。
 いつか、そんな彼を好きだと言える日が、この時は近いような気がしていた。







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