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「今は留学していていないから、部屋は好きに使っていいよ」
「ふーん」
 和泉は一回り部屋を見渡すと、ベッドに座った。そして依緒の方に顔を向ける。
「あのさ、いい加減、目、合わせようよ」
 ため息混じりに軽く笑いながら、和泉が手招きする。図星をつかれて、依緒は一瞬たじろいだ。
 目が合わせられない。彼の顔を、目を見たら、それだけで全て奪われてしまのではないかと、焦りにも似た気持ちが和泉を必要以上に近づけまいとさせる。彼だけはどんなに魅力的でも絶対、好きの対象に入れてはいけない。しかし、そう思った時点で、もはや手遅れなのかもしれない。恋は意識したら最後、加速するばかりで後戻りがきかない。

「遠慮しときます」
 和泉の足元だけ見て言うと、依緒はドアの方に振り返った。多く関わればそれだけ深みにはまっていくことは分かっていた。これは神様が与えてくれた恋の試練なのだ。どれだけ自制心を保つ事ができるか試しているに違いないと、馬鹿げたことを自問自答しながら部屋を出て行こうとする依緒に、和泉の声が届いた。
「依緒」
 全身がぴたりと止まった。投げかけられた言葉が自分の名前である事を理解するまでに数秒を要した。聞き間違いでなければ、今確かに自分の名前を呼んだ。おかしいことに、足が動かない。
「依緒だったよね、名前」
 ベッドから立ち上がる音がした。そのまま歩み寄ってくる気配がする。どうしてか振り向けない。
「一言、言いたいことがあるんだけど」
 声が段々近づいてくる。逃げたいのに逃げられない。まるで操り人形のように、和泉の次の言葉を待っている。
 すると、すぐ耳元で気配がした。
「誰かに……しゃべった?」
 囁いた言葉が生暖かく耳元にこもった。背筋をしびれが這う。肩に置かれた和泉の手からじわじわと麻酔を打たれているような、熱に浮かされる感覚が浸透していく。依緒は全身の力をかき集めて、首を大きく左右に振った。
 何かが違う気がした。彼の声のニュアンスから感じられる不確かな違和感。誠実とは程遠く、悪魔の囁きのように堕落の道へと引きずりこまれてしまうような……。

 依緒はゆっくりと振り返った。確認するようにゆっくりと。そして、伏せていた瞳で見上げると、上から黒い瞳がすぐ目の前に迫ってきていた。
 驚く間もなく呼吸が止まる。
「んっ……」
 顔を斜めに逸らして、和泉がそっと唇を押し当ててきた。動けなかった。息苦しさを感じて呼吸を止めていたことに気付き、思わず目を閉じると緩んだ唇の隙間から生温かいものが滑り込んできた。
 感触と温度が伝わってようやくキスされていることを理解した時には、逃げようとしても離れられない状態になっていた。背中に和泉の手が回されている。叫ぼうとしても、漏れてくるのは頼りない声と荒い息遣いばかりで、はね退けようとする力さえ出てこなかった。おかしな感覚が麻酔のように全身を駆け巡って足元が覚束なくなり、次第に身体からすっと力が抜けていった。

 唇が離れると、依緒は崩れるように床に座り込んだ。何も考えられなかった。頭の中が真っ白のまま、ぼんやりと顔を上げると、和泉が同じ高さに腰を下ろして目を合わせた。口角を上げて静かに笑うと、呆然とする依緒の髪に触れて、そしてそっとキスを落とした。
「口止め料……気に入った?」
 にっこり微笑む顔が、依緒には悪魔のように見えた。
「なに、これ……」
 これが、依緒と和泉の、全ての幕開けとなった。







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