「ぷっ」
噴き出すような声が聞こえて、依緒はゆっくり目を開けた。和泉は必死に笑いを
「はは、やっぱ依緒っていいや」
依緒が呆然としていると、和泉は顔を上げてにっこり笑った。
「俺、女の子に殴られたのって初めてなんだよね」
嬉しそうな表情が言葉と矛盾している。和泉が何を言いたいのか分からず、依緒は困ったように首を
「芯が強い子って、結構タイプかも」
ますます顔をしかめる依緒に対して、和泉は機嫌良さそうに微笑んでいる。
「デートしよっか」
「えっ!?」
「いいじゃん、せっかくのオフだし」
「どこに行くのよ。外なんか行ったらバレるでしょ」
「あ、俺とデート行くのは嫌じゃないんだ」
「う……」
はめられたと思った。性格が
「決まり。じゃ、今日の俺はこれでいくから」
そう言って和泉が指差したのは、先ほど読んでいた漫画の表紙だった。
「え、コ○ン?」
それは探偵漫画の主人公:江戸川コ○ン。眼鏡をかけた黒髪が特徴の主人公だった。
「そ。地味にいかないとね、バレるから。とりあえず黒い髪染めのスプレー買って来てよ。眼鏡は持ってるから」
「ちょっと、誰が買いに行くの」
「もちろん、依緒に決まってるじゃん。俺、一応芸能人だから」
「傍若無人ワガママ男」
「よく言われる」
言葉の棘は和泉には全く効き目がないようで、依緒は言い返す言葉もなくなって大きくため息をついた。仕方なく、机にある財布を手に取る。解きかけの問題集を恨みがましい目で見つめたが、これ以上続けても集中できないのは確かだった。
キスされて、
「じゃ、行ってくるから」
そう言って、ドアノブに手をかけようしたその時、「依ー緒」と言う和泉の呼びかけに依緒は足止めされた。
「なにっ」
まだ何か注文があるのか、と振り向こうとすると、ふいに頬に何かが触れた。柔らかくて微かに温もりがある。それが和泉の唇だということに気付いて、依緒は恥ずかしさのあまり思わず手を振り上げた。
「っと……」
容赦なく振り下ろされた依緒の手を、和泉はいとも簡単に受け止めた。依緒の顔が真っ赤に歪む。
「俺、二度ぶたれるほどバカじゃないんだよね」
楽しそうにニヤニヤと緩い笑いを浮かべながら、和泉は続けて言った。
「だからさ、今度俺のこと名前で呼ばなかったら、ヤっちゃうよ?」
依緒は耳を疑った。やる、という単語から色々な行動を連想しようとしたが、なぜか全て一つの事に結びついてしまった。
「最っ低ー!!」
依緒は和泉の手を振り払うと、ドアを開けて乱暴に閉めた。完全にいいように遊ばれている。ドアが閉まる寸前に「いってらっしゃーい」という和泉の陽気な声が聞こえたが無視した。
「あーあ、冗談なのに」
そう呟いて和泉は笑うと、また読みかけの本に目を向けた。
最低だ、最低な奴だ、と怒りに任せて大地を踏みしめ歩いたが、なぜかみるみる力が奪われる思いがして、依緒は人知れずへなへなと頼りなく床に座り込んだ。今頃になって全身が
ふいにキスの感触が蘇ってきて、打ち消すように首を左右に振った。絶対好きになんてならない、と何度も言い聞かせる。おかしくなる前に消火しなければいけない。火種が、さらに激しく、大きくなってしまったらおしまいだ。もう恋に身を焦がすなんてこりごりだった。自分も周りも見えなくなって、気付けば闇の中に独りぼっちになる。痛いくらいの孤独は心を削る。
一回くらいのキスなら忘れられる。そう思った途端、胸に押し寄せたもう一つの痛みの理由を、今は考えたくなかった。
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