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「やっ、やだっ」
「……依緒?」
 和泉が差し伸べようとする手を、依緒は振り払った。まるで怯えるように、体を萎縮させている。
「嘘、嘘だもん。そんなの信じない、信じたくない。だって、だって……」
 叫ぶ依緒の目線は和泉へのものではなかった。自分の心に言い聞かせるような、出てくる何かを押し込めるような言い方だった。
「依緒!」
 和泉が強引に依緒の手首を掴むと、依緒の動きがぴたりと止まった。何と声をかけるべきか分からない。依緒は下を向いたまま顔を上げようせず、頬を伝った雫が顎から2、3滴落ちて地面に染みを作った。
「ごめん、何でもない。何でもないから。ちょっと嫌なこと思い出しちゃっただけ」
 ようやく口を開いた依緒の声はか細く、いつもの彼女らしからぬ弱さだった。追い詰められたウサギのようにおびえ、傷ついたガラスのような瞳から溢れる涙を何度も自分で拭っている。和泉は指先で依緒の涙をそっとぬぐった。
「ごめん……」
 和泉の言葉に、依緒は小さく首を横に振った。
「どうして和泉が謝まるの。余計みじめになる」
 依緒が微かに鼻をすする音がした。跳ね返すような強気な言葉。それが精一杯の強がりであることを、和泉は知っていた。知っていたからこそ、他に言葉が見つからなかった。依緒の悲しみが何なのか分からなくても、涙のきっかけを作り出したのが自分のであることだけは明確だった。

「帰ろ……か」
 和泉が静かに言葉をかけると、依緒は小さく頷いた。和泉は依緒の手から薬局の袋を取ると、もう片方の手を依緒の指に絡ませた。細くてひんやりと冷たい指。女の子の手は何度も握ったことがあったが、依緒の手はその心のようにもろはかな華奢きゃしゃな気がして、まるで壊れ物を扱うような気分だった。捨て猫のように何かに怯えている彼女に、和泉は自分の過去を重ねてしまった。ほんの数年前、全てが闇に見えた頃。くもの糸さえも、自分にとっては強い繋がりだと思っていた、孤独な自分。笑顔で封印したはずの闇だった。
 和泉は思い直すように力ない依緒の手を握り締めると、そのまま引いて、ゆっくりと路地から歩み出た。お互い無言のまま、まるでにぎやかな街の影を通るような感覚でしばらく歩いていく。依緒の足取りに合わせて、和泉はゆっくりと進んだ。

 静かな通りへ曲がろうとする直前だった。ふと、握り締める依緒の手になぜか力がこもる気配がして和泉が振り返ると、依緒は驚いたように目を見開いて固まったまま、横を見つめていた。
 先ほどまで泣いていたのに、今、また泣き出してしまいそうな表情で瞳を揺らしている。柔らかな唇は悲しみに歪み、堅く閉じられていた。和泉が依緒の見つめる方向に視線をずらすと、同じように驚いた顔を浮かべた同い年くらいの男が立っていた。女慣れした雰囲気が漂っている。どこか人を食ったような表情と、冷えた瞳。男の隣にはやや派手な格好をした女が腕を組んで立っていた。白いミニスカートに黒のブーツ、胸元が深く開いた薄いピンク色のVニットを合わせている。頭が軽そうで、こびを売ることだけは上手い、男と洋服と自分の事にしか興味が抱けないような感じだ。芸能界にもそんな人種が数多くいる。二人の並ぶ距離から、おそらく恋人同士だろうと和泉は思った。
「依緒……」
 男は唇を少しだけ動かして名前を呼んだ。名前以外、言葉が見つからないといった様子だ。男の声に依緒の手が微かに震え、握る手を通して和泉にも伝わった。
 和泉は黙ったまま、再び依緒の方に振り返ると、依緒は顔を見せないように背けていた。それは和泉にではなく、男の方に……。

「なんか用?」
 和泉がそう言うと、男の瞳に鋭さが宿った。
「つーか、お前、誰」
 冷めた瞳に似ず、攻撃的な言い方だった。依緒の手に、また力が入った。和泉は、依緒が全身で男を拒否していることが手に取るように感じられた。理由は知らなくとも、依緒がこの男に傷つけられたことだけはなぜか分かった。先ほどの涙も、かたくなに閉ざす唇も、微かに震える体も、崩れるような心の脆さも、全てこの男の仕業だと。
 和泉はわざと相手をあおるように、口元を上げて言った。
「見てわかんないの。彼氏だけど」
 途端に、男の顔が明らかにひるんだ。苦い顔をして、悔しそうに目を逸らす表情を和泉は見逃さなかった。

「じゃ、デートの途中なんで」
 和泉はヒラヒラと手を振りながら、依緒の手を引いて再び歩き出した。背中には、攻撃的な視線を痛いほどに感じる。しかし、仮にも芸能人。そんな視線は浴び慣れていた。問題は依緒の方だ。
 ほんの少し間があいた後、背後で「行こうよー」という甘えた女の声がして、反対方向へ歩き出す気配がした。おそらく、隣の女が痺れを切らして不服な顔で男の腕を引いたのだろう。
 和泉は軽く息をついた。

 お前が芸能界にいるせいで彼女を盗られた、返せ、という男のやっかみはいつだって受け流してきた。ファンになったらしい女の子を、顔も知らないのに盗るはずもない。それにもし、女が離れていったのなら、それはよほどその男に魅力が感じられなくなったからだ。そう思って、やっかむ男を哀れんだりもした。

 何もしないで今の地位を手に入れたわけじゃない。睡眠時間を削り、好きなこともできず、時には自分を偽って、偽者を作る。辛い時だって笑顔を振りまき、勝つか負けるか常にプレッシャーと隣り合わせだ。それでも欲しいものがあったから、必死に崖を登ってきただけだ。

 和泉はそっと依緒を窺った。下を向いているせいで髪の毛が邪魔して表情が見えない。暗い海の底で、まるで心まで閉ざしているようだった。和泉は視線を前へ戻した。やっかんだ男の気持ちが、少しだけ理解できた気がして心が沈んだ。
 嫉妬するほど、恋人の事が好きだったのだ。心を共有し過ぎてしまった。だからやり切れなかった。忘れられず、離れても心にはまだ好きな人がいて、他へぶつける事でしか気持ちの整理ができないほど苦しんでいた。

 好きという気持ちは極上の甘い言葉で、どんなことも幸せに変えてしまう。だから恋人達は愛をささやきあう。好きという言葉で互いの心を近づける。一つに溶け込むほど共有する。
 しかし一方で、相方を失った後の好きは、人を苦しめ縛る。好きという言葉の残骸で作られた透明なひもは見えないうちに幾重にも重なって雁字搦がんじがらめに束縛する。すぐには抜け出せない。解かなくていけないのに、まだ紐を解きたくないという思いが手を止める。そして、好きな人が居なくなった後も独りで紐を巻き続け、繭玉まゆだまとなって閉じこもる。現実を突き放す。繭を少しでも破ったなら、眩しいほどの現実を感じられるのに、傷ついた心は蝶になる事を恐れる。
 まるで今の、依緒のように……。

 先程にもまして、依緒の足取りは鎖をつけたように重くなっていた。







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