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 もう、雨の音さえも耳には届かなかった。ゆっくりと陽介の手が依緒の肩を掴み、そのまま壁に押し当てると、ごく自然に首筋に顔をうずめた。ねっとりとした熱い感覚が伝わって、思わず声が出そうになる。依緒は必死に喉の奥でこらえた。

「……ほら、陽介って呼べよ」
 陽介は焦らすように何度も首筋の辺りを上下に這っては、ちらりと依緒に視線を向ける。鋭い光を帯びた瞳。意地悪な口元。依緒は声も出ず、ただふるふると首を振った。
「ふーん。依緒さ、他の男で満足できんの? 忘れたなら、思い出させてやるよ」
 言葉が終わるや否や、太腿の内側をすっと冷たい感覚が触れて、全身が強張った。紛れも無い、陽介の手だ。
「ここでヤろっか、ホントはお前もしたいんだろ」
 ゲームを楽しんでいるかのように囁く声が媚薬のように誘ってくる。気持ちとは裏腹に、皮膚を通して染み込んでくるような気がした。陽介の手は依緒の反応を確かめながら、慣れた手つきでなぞるようにゆっくりと上がっていく。悪戯な指先は心ごとくすぐるように滑りあがっていくが、肝心な所には触れない。背中を、寒気とは違う感覚が走った。
「やっ……」
 依緒は小さく悲鳴を上げた。このままでは本当に流されてしまう。すると、階段下の廊下の向こうからパタパタと走って来る上履きの音が聞こえた。誰かが近づいてきている。その足音は陽介にも届いたのか、軽く舌打ちをすると、そのまま黙って依緒から離れた。
 しかし、離れたのも束の間、強引に依緒の肩を引き寄せると先程と同じように首筋に唇を寄せた。小さな痛みが走り、そして離れた。

「せいぜい彼氏にバレないといいな、それ」
 しっかりと依緒の目を見据えてそう言うと、ふっと笑って陽介はゆっくりと階段を降りていった。その背中が遠退くにつれ、ガチガチにこもっていた力が一気に体から抜け落ちていった。座り込むまでには至らなかったが、壁に寄り掛かって体を支えるのがやっとだった。
 依緒は心を落ち着けようと息を吐いた。しかし、その息が生温かく湿っていることに気付いて、胸が悲しくざわめいた。去ってもなお、首筋が焼かれたように熱い。
 陽介とこんな風になるなど、もう二度とないと思っていた。触れる以前に、視線さえも合わないよう気を配っていたのだ。時間と共に心も少しずつ離れていって、もう大丈夫だと思った。それなのに、陽介に触れられることがこんなにも自分を揺るがしてしまうとは……。結局、あの頃と何一つ変わっていなかったのだ。忘れるなんて口先ばかり。まだ陽介を消したくない。心も体もそう言っているような気がして、依緒は両手で体を包み込むようにして俯いた。

 陽介が角を曲がると、すぐ入れ違いに来たのは梨枝子だった。足音は梨枝子のものだったのだろうか。
「あ、依緒。良かった」
 梨枝子は依緒に気が付くと、少し息を乱して階段を上がってきた。よほど早く走ってきたらしい。依緒は慌てて壁から身を起こすと、すぐさま首筋に手を当てて、そのまま引きつるような笑顔を向けた。
「どうかしたの? そんなに慌てて」
 梨枝子は依緒のいる所まで駆け寄ると、やや前かがみになって苦しそうに呼吸を繰り返し、そして顔を上げ、目を大きく見開いた。
「あ、あの、あの人が来てる」
「え?」
 あの人とは誰だろうか。依緒が首を傾げると、梨枝子は一瞬考え込むように躊躇ためらい、そして少しばかり依緒に詰め寄った。
「ほら、依緒の彼氏? の人。昇降口に来てるよ、今」
 梨枝子はやや疑問系でそう言うと、胸に手を当てて呼吸を整えながらふわりと笑った。優しさが滲み出る梨枝子の笑顔は、少しだけ依緒の気持ちを楽にした。
「はは、梨枝子ってば。私に彼氏がいないことくらい知ってんじゃ……」
 そこまで言って、依緒は自分の顔がすうっと青ざめていくのを感じた。忘れていたが、この前のオフの日、和泉といるところを梨枝子に見られていたのだ。しかも和泉がバカな事言ったせいで誤解されていたのに、訂正することをすっかり忘れていた。
 でも、まさか和泉が学校に来るなどあり得ない。学校の場所を知るはずもないし、毎日仕事で忙しいはずだ。第一、会いに来てもらえるほどの理由が思い浮かばない。しかし、こんなにも否定する要素は沢山あるのに、なぜかひやりと嫌な汗が背中を伝った。
 繰り返し浮かぶ悪い予感を振り切ろうとしていると、梨枝子が頬を上気させてはにかむように言った。
「依緒の彼って、芸能人だったんだね。この前はよく見えなかったからびっくりしたよー」
 弾むような調子で話す梨枝子とは対照的に、依緒はその一言とともにモースピードで走り出した。
「あ、依緒」
 梨枝子の呼び止める声に、振り返る余裕もなかった。所々、上履きでブレーキをかけながらも、今は雨で滑ることなど気にしてなんかいられない。嘘だ。和泉が来るはずがない。それでも、今一番会いたいと、そう心が悲しく叫んでいた。







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