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内緒の関係
【secret.8 冷えた指先】




 昇降口に来るまで、ものの一分とかからなかった。ひどい雨の足音だ。昇降口には人影すらない。梨枝子が嘘をつくはずもないが、もしかしたら勘違いだったのかもしれないと、過ぎていく時間がキリキリと胃を責め立てていく。
 依緒は視線を床へと落とした。誰もいない昇降口は、どうしてこうも寂し気なのだろう。皆が落としていった憂いが、眼には見えないほこりのごとく溜まっている気がする。
 そっと首筋に手を触れると、指先にじんと沁みこむ様な熱さが伝わってくる。頚動脈けいどうみゃくが通っているというのは本当で、あらゆる熱の全てがここに焦点を当てて流れているように感じられた。
 陽介は、依緒の弱いところは全て分かっている。自分の行動が依緒にどう影響を与えるのかを理解している。そうゆうことを知るのが初めから上手い男だった。
 依緒は緩んだネクタイをきっちりと結び直すと、下がり気味の唇を強く引き結んだ。

「あ、いたいた」
 ふいに昇降口の横のトイレから出てきた男の子に声をかけられ、その間の抜けたような言い方と馴れ馴れしさに驚いて依緒は顔を上げた。視線が合うと、目を見開いたまま固まる依緒などお構いなしに、濡れた手をぶんぶんと両手で振りながら「やっぱり梨枝子さんに頼んでよかった」と言って、前までやって来ると立ち止まった。
「なんか拭くもん、持ってない?」
 そう言って和泉が笑う。しかし、依緒は尚も言葉を閉ざして、ただ見つめ返すだけだった。半ば諦めかけたところ、不意打ちで待ち望んだ荷物が届いた気分だ。
「ねえ依緒。聞いてる?」
 返事をしない依緒に対して、和泉は困った様子で顔をしかめると、顔を覗き込んだ。依緒は強張った表情をふいにふにゃりと歪めると、眉尻をすっと落とした。口元はへの字に硬く結んでいるのに、それでも微かに震えてしまう。ダムが決壊する寸前の緊迫感が、見上げる依緒の表情に溢れていた。
「なになに、感動の再会ってやつ?」
 和泉はあえて茶化す様に言葉を弾ませると、ズボンで二、三度手をはたいて拭き、依緒の頭をポンポンと優しく撫でた。質の良い毛布のように柔らかで、正午の陽射しのように心地よいタッチ。でも何より安心したのはシュークリームみたいな甘い笑顔だった。
「バカ言わないでよ。私は呆れて涙が出そうなの。和泉の軽率すぎる行動に」
 どうか声が震えていることだけは伝わらないでほしい。眼に溜まった涙を精一杯押し止めて依緒は言った。笑ってるのか泣いてるのか、曖昧な口調だった。
「はは、相変わらずじゃん。ま、今日は雨だからね、傘あるし、そうそうバレないよ」
 和泉はあっけらかんと笑うと、「一緒に帰ろう、迎えに来たんだ」と付け加えた。そして、昇降口の傘立てに指してある黒いビニール傘を引き抜いた。人気アイドルにこんな雨の中迎えに来てもらったと言ったら、十人中九人は羨ましがるかもしれないが、依緒にはいい迷惑だった。明日、梨枝子にどんな言い訳をしたら良いのか、考えるだけでもうつになりそうだ。
 けれど、少しも腹立たしくないのはどうしてだろう。きっと今、目の前で笑う和泉の笑顔が、雑誌で見たのと同じような甘く優しい笑顔だからだろうと自分に言い聞かせて、ふっと力が抜けたように微笑むと傘を広げる和泉の隣に歩み寄った。

「今日、ようやくドラマのクランクアップでさ。すっげ疲れたー」
 家に着くなり、和泉は依緒のベッドになだれ込んだ。我が物顔で居座られることにはもう慣れたつもりだったが、やはりベッドにいられると少しだけ変な気分になる。依緒はちらりと横目で窺いながら、カバンを机の脇に置くとそのまま椅子に座って言った。
「もしかして、あれ? 純愛路線の」
 休み時間に知香に見せてもらった雑誌が思い浮かぶ。加えて、相手役の女の子の顔が脳裏をかすめた。通称、白雪姫の女の子だ。
「ああ、そうそう。詳しいじゃん。さすが俺のファン」
 和泉は顔を上げるとニヤリと笑って「純愛なんてまさに俺っぽいっしょ」と得意げに話す。き物が落ちたような晴れやかな顔をしているのは、ドラマの撮影が無事に終わったからだったのかと、依緒は呆れてため息をつきながらも、頬が確実に緩んでいくのを感じていた。
 こんなやりとりは実に何週間ぶりだろう。たったの数週間が、こんなにも長いものだと気付かされたのは、家にいない父親を恋しく思った小学生の時以来だ。

「アンチファンの間違いでしょ。しかもね、和泉が純愛なんておかし過ぎ」
 こんな風に、ついつい憎まれ口が出てしまっても、和泉がさらりと交わしてくれるから楽だった。兄弟のようで、どこか兄弟じゃない。弟の恭哉といる時とは、やはり心持ちが少し違った。恋人でも、家族でも、友達でもない。和泉を枠でくくるに相応しい名称は、はっきりと思い浮かばないが、少なくとも挨拶を交わすだけのような浅い友人よりは近いものを感じていた。
「へえ、じゃあどんな役が似合うわけ?」
「そうだね、強いて言うなら性格悪い、女の子に手の早い軟派なんぱ男」
「よく分かってるじゃん」
「当たり前でしょ。これでもマネージャーの娘なので。人を見る目だけはあるんだから」
 和泉は微かに噴き出して笑うとそのままベッドから立ち上がり、依緒の元へ歩み寄りながら「じゃあ俺は合格だよね」と言って、唇に不意打ちでキスをした。抵抗する間さえ与えない早業。触れるか触れないかのキスなのに、離れた後も柔らかい感触がいつまでも唇に残っているようで、依緒は恥ずかしさに顔を赤くした。不思議と文句の一つさえ出てこない。

 ぴたりと動かなくなってしまった依緒の反応を楽しそうに窺いながら、和泉はもう一度顔を近づけようと試みたが、依緒は寸前で和泉の口を塞いだ。
「ひゃにふんの? (何すんの?)」
 依緒は両手の掌を重ねて和泉の口に押し当てると、突き放すように力を込めた。
「ここ、家!」
「ひひひゃん、ふぁひぇもひなひひ (いいじゃん、誰もいないし)」
 父は事務所に戻って仕事があるらしく、家の前で和泉を落とすと、すぐさま行ってしまったそうだ。そこで暇を持て余した和泉は、まだ家にいた母に学校の場所を聞いて迎えに来た経緯いきさつを、さきほど帰り道で話していた。母は趣味が高じて数年前に料理教室を開き、週に二日、この時間は先生として教えているのでまだ家に帰ってきていない。つまり、誰にも邪魔されない、イコール、助けてもらえない魔の時間なのだ。
「ダメ! それにキス魔は嫌い!」
「ふーん。でもさ、依緒は俺のキス好きだよね」
 和泉がニヤリと笑う。唐突な言葉に、依緒は唖然としてしまった。どうしたらそんな脈略もないことが言えるのだろう。毎回、和泉の思考回路には度肝を抜かれる。依緒の力がふいに緩んだ隙を狙って和泉は両手を掴んで拘束すると、そのまま左右に広げて固定した。







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