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「ひとつ、言っていい?」
「……なに」
 依緒は平然とした顔で答えると、機嫌良さそうに微笑んでいる眼をしっかりと見据えた。すぐ目の前に和泉の顔がある。あまりに近くて、撮影カメラにでもなったような気分だ。心の中はちっとも穏やかではいられないが、和泉のペースになんかのるもんかという変なプライドがあって、ドキドキする気持ちを表情には出さないよう抑えた。
 気付かれないように、そっと掴まれた腕に力を込めてみたが、びくともしない。演技ばかりしている割には体力もあるようだ。考えてみれば、写真集などで緩んだお腹は見せられないから一応は鍛えているのかと、平常心を取り戻そうとしてあれこれ思い浮かべてみたが、和泉の次の言葉に全てが吹っ飛んでしまった。
「今日ってさ、ピンク?」
 はあ? と、開いた口が塞がらない。初めは何を言っているのかよく分からず、にこにこと微笑む和泉の顔をいぶかし気に見つめていたが、ふいに思いついて胸の辺りを見ると、濡れたブラウスにピンク色の下着が綺麗に映えていた。

「やっぱビニール傘って小さいから濡れるんだよね」
 和泉は楽しそうに言葉を弾ませる。依緒は慌てて隠そうとしたが動かすことができず、じたばたともがいた。
「ちょっと! 放して! エッチ、バカ、変態」
「ひどいなー、その言われよう。俺、教えてあげたのに」
「やだ、やだやだやだー!」
 余裕な顔をする時の和泉は危ない。それは、和泉が家にやって来た初日に、身をもって知ったことだった。何が何でも逃げようと思うのに、掴まれた腕がびくともしないのが悔しい。依緒が真っ赤な顔で睨みつけると、和泉は静かに言った。
「分かった。じゃあ交換条件ってのはどう」
「交換条件?」
 ドキリ、と嫌な予感がした。
「そう、依緒が俺の言ったこと叶えてくれるなら俺も放してあげる」
「やだって言ったら」
「罰ゲーム、再び」
 依緒は息が詰まるのを感じた。和泉はやると言ったらやるだろう。そう、ヤると言ったら本気でヤる男だ。
「条件は……」
 依緒は祈る思いで和泉を見つめた。目の前の笑顔は怖いくらいに整っている。

「して、依緒から」
 ゴーン!! 頭からタライが落ちてくるほどの衝撃だった。言われることに予想はついても、このタライはよけきれない。
「何、を」
 浮かんだ考えを認めたくない一心で恐る恐る聞く。
「分かってんじゃん、そんなの」
 和泉は口元を引き上げた。言うまでもない、そう言っている顔だ。やはり要求することは一つだった。
「どっちみち罰ゲームと同じじゃない!」
「全然違うよ。罰ゲームはその名の通り俺からする。でも依緒が自分からするのは気持ちが違うじゃん?」
「無理矢理なことには変わりないと思うんだけど……」
 依緒はぼそりと呟いたが、和泉に軽く無視された。

「じゃ、十秒以内ね」
「は!? 何それ、制限時間つき!?」
「そ、じゃないと誰かが帰ってくるまで粘られそうだから」
「拒否権は」
「じゅーう、きゅーう、はーち……」
 依緒の言葉をさらりと交わして、和泉は勝手にカウントをし始めた。途端に、体がそわそわとして落ち着かなくなる。
「え、ちょっと!待って!」
 依緒のポーカーフェイスがみるみる崩れていく。数をかぞえられると、どうして人はこうも焦ってしまうのだろうか。カウントされる度、自分の一部分を切り取られていくような恐怖感が増していく。和泉が策士だと改めて気付かされた。余計に頭が混乱してまとまらない。

「なーな、ろーく……」
 和泉の平淡な声が部屋に響く。
「和泉!」
 何とか止めようと声をかけるが、無視してカウントを続ける和泉は鬼だ、悪魔だ。
「ごーお、よーん……」
「ひどい、こんなの!」
 キスは好きな人とするものだ。強制できるのは恋人同士である人だけだ。バカバカバカ!と心の中で悪態をつく。
「さーん、にーい……」
 和泉はしれっとした顔でカウントを続ける。依緒は顔中がで上がるような熱さを感じた。全身の血が沸騰して湯気が出そうだ。まともに考えられる状況じゃない。
「いーち……」
 うそ、やだやだやだ、と胸のうちで叫びながら依緒はぎゅっと目を閉じた。
「ぜーろ……」
 カウントが止まった。

 和泉は呆れたように笑ってため息をついた。
「それ、反則じゃない?」
 依緒はゆっくりと顔を離すと、涙が滲む瞳で和泉を見上げた。
「キスはキスでしょ。……頬でも」
 依緒が唇を尖らせて抗議をすると、和泉は「残念」と独り呟いて手を解放した。先ほど暴れてもがいたせいか、ほんのりと手首が赤くなっている。
「あーあ、しくじった。依緒は絶対、口にしてくると思ったんだけどね」
「するわけないでしょ、好きでもないのに」
 解放されて安心したのか、少しだけ口調に強みをもたせることができた。相変わらず面白そうに笑う和泉を軽く睨みながら、依緒は心の中で思い起こしていた。本当は寸前まで、和泉の言うキスをしようと考えていたことを。頬にすることを思いついたのは、唇が触れる寸前だった。
 好きじゃないのなら、自分の唇を口の中に丸めて隠してしまえば良かったのに、そんな単純なことさえ思いつかなかった。焦って考えられる状況じゃなかった。そうゆう時は本能のままになるって話を前に聞いたことがあったが、まさか……。
 いや、そんなことはないと、依緒はその考えを否定した。
「早く着替えた方がいいよ、風邪ひくから。あ、何なら俺が脱がしてあげてもいいけど」
「ノー、サンキューです」
 依緒がきっぱり言い切ると、和泉は苦笑しながら部屋を出て行った。少し経って、階下で玄関のドアが開く音がして、「ただいまー」と告げる明るい母の声が流れてきた。

 依緒は床に崩れ落ちた。和泉といると、少しずつ心の奥を開かれていくようでドキドキして、危うく全てを開け放ってしまいそうになる。それでは、あの時と、陽介の時と同じになってしまう。簡単に開いてしまったドアの奥は、侵入者にことごとく荒らされてボロボロになってしまった。
 治りかけた古傷が寒さで痛むように、依緒の心もキシキシとびついた音を立てていた。
 依緒は首筋に手を当てた。侵入者の冷たい指先が、最後の扉に手をかけようとしていた。







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