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「今日当番のやつは放課後残ってくれ。手伝ってほしいことがある」
 担任の教師が授業の終わりに付け加えた。生徒達はご愁傷様という視線を当番の人に投げかける。依緒も今日の当番は誰なのか確認しようと黒板を見ると、日暮と前田、と書かれていた。思えば今日は前田さんを見ていない気がして疑問に思っていると、一人の生徒が声を上げた。
「先生、今日の当番、俺ひとりなんですけど」
 すぐ横から聞こえてくるその声に、依緒はドキリとした。まともに聞くだけで、心臓が口から零れそうになる。陽介の声は、ただ耳の中を通り過ぎていくだけでは終わらない。例え自分に向けられたものでなくても、心臓を見事に荒らしていくのだ。
「前田はどうした。ああ、休みだったか。そうか、一人は大変だろうから誰か手伝ってやってくれ」
 担任の声に反応するものは一人もいなかった。この忙しい受験期に、放課後残ろうなんていう仏心の持ち主はいない。皆、誰かがやってくれるだろうことを期待して、自ら積極的に申し出る者はない。さすがの梨枝子も手を挙げなかった。その理由が何となく分かって、依緒は申し訳ない気がした。絶対、原因はあの休み時間だ。

 担任は困った顔をして指先で頭を掻くと、息をついてうなだれた。
「なんだーお前ら。もうちっとクラスの輪を大事にしようとは思わないのか。協調性が足りんぞ、協調性が。仕方ない、じゃあ適当にこっちで決めるからな」
 そう言って名簿を開く。依緒はぎゅっと目を閉じて祈った。神様、一生のお願いですから見逃して下さい、と。

「誰が指名されても恨みっこ無しだ。じゃあ、27番」
 やった! と、依緒は心の中でガッツポーズをした。しかし、やはり運命とは皮肉なものだ。
「あ、三河も休みか。なら、次の28番でいいか」
 担任はどうでも良さそうな声で、番号を告げた。
「28番、深山だな。頼むぞ」
「え……」
 依緒は返事をしなかった。いや、できなかった。ぐうの音も出ないとはこのことだと思った。依緒はがっくりとうなだれたが、それを頷いたと捉えた担任は、ほっとした様子で笑うと号令をかけた。立たないわけにはいかないので、依緒はだらしなく立ち上がると崩れるように礼をした。

「お前、とろい」
「……はあ、すいません」
 陽介の文句に、依緒は素直に言葉を返した。とにかく彼の気に触れないよう必死だった。陽介が身動きをする度、依緒の体がわずかに震える。
 トントンとプリントの束をそろえる音と、パチッとホチキスで留める音が教室の中に響いた。依緒はなるべく陽介と目を合わせないようにしていた。とはいえ、隣同士で作業をしているため、ずっと意識して下を向いているのも疲れてくる。
 どんなにあがいても流れる時間は止められず、放課後がきてしまった。知香や梨枝子に泣きついたが、二人とも予定があると言って申し訳なさそうに帰ってしまった。それに、しつこく頼み込んだところで、逆に理由を訊かれると困る。だから強引には迫れなかった。
 依緒はちらりと視線だけ横に向け、見上げた。陽介はだるそうにプリントをそろえている。じっと見ているつもりはなかったが、ふいに目が合いそうになって思わず逸らした。
「なに」
「え、何が」
 依緒は視線を逸らしたまま、とぼけた声を上げた。陽介はいぶかしげに依緒を見つめていたが、諦めたのかまた作業をし始めた。

「お前さ、大学どこ受けんの」
「だ、大学?」
 予想外の質問だった。何かされるとずっとビクビクしていたが、今日は何もする気がないのかもしれない。普段の陽介はどちらかというと今のような感じで、サディスティックな口調になるのは本当に時々のことだった。依緒は少しほっとして、すぐさま言い直した。
「私はM大かな、家から近いしね。あ、陽す……」
 依緒ははっとして口を閉じた。作業をしている手が止まる。気が緩んだせいか、陽介とうっかり呼びそうになってしまった。気付かれてしまっただろうかと、心臓の鼓動が一気に速くなる。

「俺はW大。あそこ、奨学金制度整ってるから」
「あ……、そ、なんだ」
 依緒は曖昧に答えた。つっこまれると思ってヒヤヒヤしていたのに、陽介の態度は普通すぎて、それで良いはずなのに、なぜか違和感を感じた。
「本当は早く働いた方がいいんだろうけど、高卒じゃ給料も高が知れてるしな」
 陽介は他人事のようにすらすらと言葉を並べた。表情に感情が表れない。依緒は居た堪れない気持ちでその横顔を見つめていた。陽介はいつも、自分のことをあまり話さない。だから弱いところも何もなさそうに見えるけど、本当は隠しているだけなのかもしれない。傍にいる時は見えなかったものが、今は少し、見えてくる気がした。

「お父さん、どう?」
 依緒はためらいがちに視線を上げた。不思議な感じだった。言葉をひとつ交わすたび、昔に引き戻されていくようで。ずっとずっと近くにいるような気がする。二人の間を分かつ、わずか30cmほどの隙間がひどくもどかしく思えた。
 陽介は一瞬驚いたような顔をしたが、ふっと力を抜くように息をついた。
「親父は相変わらずだよ。ずっと眠ってる」
「そう」
「まあ、自業自得じゃねえの。親父の女好きは病気みたいなもんだからな。好きな女に突き飛ばされてああなったんじゃ、文句も言えねえだろ」
「でも……」
「つーかさ、一応、心配はしてくれるんだ?」
 陽介は肘をついて依緒を見ると、意味深にニヤリと笑った。
「そ、それは、別に……」
 依緒は視線を泳がせた。陽介の視線はいつも、心の中を見透かしてしまう気がする。だけど今はあの頃とは違って、意地悪な視線も少しだけ穏やかに受け止められるように思えた。依緒は所在無い思いに迫られて、作業を再開しようとプリントに手を伸ばした。

「……ごめんな」
「え?」
 依緒は驚いて手を止め、陽介を見上げた。予期していない言葉だった。陽介の顔からは笑いが消え、ただ依緒をじっと見つめている。
 今の「ごめん」は、心配させてごめんの意味なのか、それとも……。多くのことを考えようと試みるものの言葉にはならなかった。見つめる時間が過ぎていくほどに、陽介の瞳からは、ただひとつのことしか汲み取れないような気がした。この気持ちは何なのだろう。今にも涙が溢れそうになる、この込み上げてくる気持ちは……。
 どのくらい見つめ合っていただろう。ふいに、陽介の顔がだんだん視界に広がって。手がふわりと頬に触れた。その手が首筋を滑っていき、肩に回る。それでも、依緒は動かなかった。窓から流れてくる野球部の掛け声も、吹奏楽部の合奏の音も、女の子達のはしゃぎ合う高い声も、周りの音全てが消えていた。
 陽介の腕が背中に回った。温もりが依緒を優しくも強くも包む。迷子になっていたパズルのピースがはまるように、久しぶりの陽介の腕の中は、ひとかけらの違和感も感じられなかった。嫌いで……手放したわけじゃない。好きで、好きで、その想いを持て余しすぎたから、自分が潰れる前に離れたのだ。
 依緒はそっと背中に手を回した。神の御前に立った時と同じ、今なら全てが許せてしまう気がした。悲しみも憎しみも、心に残ったしこりのすべてを洗い流してしまう、優しい優しい抱擁だった。







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