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 癖のある髪も、挑戦的な鋭い瞳も、調子の良い性格も、あまり滑舌の良くない癖のある声も。
 本当はずっと、手に届くとこにあったのに、気付かない振りをしていたのは……。

 君に恋する自分に、気付きたくなかったから……。




ラストサマー





「ふう……」
 テニスボールのいっぱい詰まったかごを地面に置くと、梨枝子りえこは額の汗を手の甲で拭った。熱光線のような陽射しが肌を照りつけて、今も汗が毛穴からじんわりと流れているのが分かる。額に手をかざして空を見上げると、夏の太陽が青い空でじりじりと燃えていた。
「夏、だなあ……」
 独り小さく呟くと視線を前に戻した。目の前には、好き放題に伸びた雑草が青々と茂っている。夏の草は色も香りも違う。生命力が全身から溢れているような艶やかな濃い緑色をしていて、独特の青臭い匂いがみなぎる若さを示していた。
 梨枝子は草むらの向こうに広がるテニスコートに目を遣った。ラケットに当たる心地よいボールの音、部員の掛け声。男子テニス部のマネージャーになって三年目、中学最後の夏が訪れようとしていた。

「梨枝子ー! ボールちょうだい、ボール」
 ぼんやり眺めていた梨枝子に向かって、ピンク色のTシャツを着た知香ちかがフェンスの向こうのテニスコートから大きく手を振った。
「ごめん、今行くから」
 梨枝子は慌てて答えると、かごをかついだ。一個なら空気のように軽いボールも、かごいっぱいに溜まるとさすがに重い。さらに、夏の暑さが災いして疲労感が増し、梨枝子はよろよろと不安定に歩きながら何とか知香の所まで運びきった。コートの側にいる時は、飛んでくるボールに当たらないよう気を配らなければならない。
「ごめんね、遅くなって。これで間に合うかな」
 梨枝子は乱れた息を整えながら、知香の前にかごを置いた。砂がついて薄汚れた黄色いボールが、かごいっぱいに詰められている。知香は何も言わずにこりと微笑むと、後ろを振り向き、フェンスの裏で素振りをしている一年生に向かって声を上げた。
「さーて、出番よ、一年生諸君。ボールを拾えー!」
 知香はふざけた様子で笑い、勢い良く手を振り上げた。
「うわ、知香先輩、それないですよー」
 当然、一年生部員はブーイングの嵐だ。不満げに唇を尖らせる者、頭を抱えてうな垂れる者。まだ入りたての一年生にとって暑い夏は初めてで、暑さに耐えうるスポーツ根性というものができていない。
「これも体力作り。口より手を動かしなさい」
「げー」
「あーあ、知香先輩、まったく鬼だぜ」
「なにー」
 知香がにらみを利かせると、体操着姿の一年生達は渋々あちこちに転がるボールを拾い始めた。仁王立ちする知香の隣で、梨枝子はくすくすと笑いながらその様子を見ていた。何だかんだと文句は言っても、皆、知香のことが好きだから結局は受け入れてしまう。口では逆らっても、本心では逆らっていない。先輩への憧れか、淡い恋心か。恐らくどちらかの気持ちを、一年生の男の子達は抱いている。
 柔らかな毛質に気の強そうな目尻。口角の上がった悪戯な口元からは、時折、歯にきぬ着せぬ言葉が飛び出すが、はっきりとした口調は反って清々すがすがしく感じられた。可愛い顔に小悪魔な性格。そんな女の子を一体誰が放っておくと言うだろう。知香はそんな存在だった。

「あ、志麻しま先輩」
 一年生の一人が、拾ったボールを腕に抱えて梨枝子の前に来た。白い体操服が初々しく、夏の陽射しに照らされて眩しく感じられる。
「ボール、どこに入れればいいですか」
「あ、じゃあここに」
 梨枝子は近くにあった空のかごを差し出した。
「どうもっス」
 一年生の男の子は、おずおずと一礼をするとボールをかごに入れた。そして、何も言わず、また余所余所しく去っていく。無機質な白い背中が遠く感じられて、梨枝子は細い針で刺されたように少しだけ心がちくんと痛んだ。
 こうゆうことには、もう慣れたはずだった。後輩部員は“知香先輩”と呼んでも、梨枝子のことを“梨枝子先輩”とは言わない。理由なんて、あまりにも簡単すぎる。距離が違うのだ。後輩部員たちから見た知香と梨枝子。例えるならば、知香が人目を引く綺麗な桜なら、その地面周辺に生える淡いブルーのオオイヌノフグリが梨枝子、とでも言ったところだろうか。

 ひっそりと、悪く言えば地味なのかもしれない。でも、それが自分のポジションだということはよく分かっていたから、知香のようには到底振る舞えなかった。受け入れてもらえる自信がない、と言えばそれまでなのだが……。
 だからこうゆう時、自分だけがぽつんと暗い世界にいる気分になる。それでも、梨枝子は何とか笑顔を作って立っていた。まるで弱みを見せてはいけない場所ように、三年も慣れ親しんだはずのこのコートは、いつ居ても落ち着くことはなかった。いつだって、背筋を伸ばして平然を装い、気を遣って言葉を交わす。本当の心の中など、誰も知ろうとはしない、気付かない。いっその事、透明人間にでもなってしまった方が楽かもしれないと思っては、苦い思いに胸が潰れた。

 コートに居続けるのも居た堪れなくなって、何か仕事でも見つけてこの場を去ろうと考えていた時だった。
「ウィーッス」
 フェンスの入り口から明るい声が聞こえて、誰かが遅れて入ってきた。皆が注目するのにやや遅れて梨枝子も目を遣る。遅れてきた男の子は「すんません、寝坊しました」と頭を掻きながら笑い、部長の方に歩み寄って行った。遅刻の常習犯こと、二年生の比良ひらみさきだ。いつもへらへらした態度でお調子者の岬は、男子テニス部二年生の中心的存在だ。その理由は、彼が二年生唯一のレギュラーだということもある。愛嬌があり、話もテンポがあって上手い。おまけに顔も悪くないのだ。癖毛のような跳ねた毛先が彼の突拍子もない性格そのものを表していて、校則違反の茶色い髪の毛がやんちゃな印象を与える。そうなると、当然女の子の受けも良く、特に梨枝子と同じ三年生の女子からは「可愛い」、「あんな弟が欲しい」との評判が高かった。

 あまり反省の感じられない岬の態度に部長は怒る気力もないようで、呆れた顔でため息をつくと「早く始めろ」と一言述べ、先ほどのようにラリーを始めた。何度怒っていましめても、その言葉は岬の耳の中を通過するだけに終わってしまう。とりあえず、テニスの方に関してだけは期待の新人である岬に、部長の態度は甘いのだ。けれど、やはり憎めない性格ということもあり、誰もが暗黙の了解となっていた。
 梨枝子は部長と岬のやりとりをやや離れた場所で眺めていると、ふいに岬が横を向き目が合った。
「うわ、梨枝子先輩じゃないっスか」
 岬はコートの側に立っている梨枝子に気付くと、表情を輝かせて駆け寄って来た。犬のように真っ直ぐにそのまま抱きついてきそうな勢いで、梨枝子が思わず身を引くと、二人の間に知香が立ちふさがった。
「岬! 毎回毎回、梨枝子を困らすのはやめなさいって言ってるでしょ」
 呆れた顔で知香が言うと、岬は、ちぇっ、と軽く舌打ちした。
「つーか知香先輩、邪魔しないで下さいよ」
 滑舌が悪いせいか、岬の言い方には生意気さが際立つ。独特の癖のある声だ。
「あんたが危険だからよ」
「ひどいっスね。後輩の密かな想いを踏みにじるつもり?」
「どこが“密か”なのよ。梨枝子の身になってみなさい」
 知香はツッコミを入れるように素早く返した。すると、岬はまた舌打ちをして、つまらなそうな顔を浮かべながらラケットで肩を二、三度軽く叩いた。機嫌を損ねたらしい。岬はすぐ顔に出るタイプなのだ。素直なのか、子供なのか。こうして毎回冗談に付き合わされるのも、色々な意味で気が重い。

「ほら、ただでさえ遅刻魔なんだからね、さっさと始める」
 知香は岬の背中をコートの方へと押しやった。弟に活を入れる姉。知香と岬を見ていると、そんな図がやすやすと思い描けた。しかし、二人の整った容姿ならば、恋人と見えても違和感はないだろうと思いながら、梨枝子は傍観者のように眺めていた。
「へーいへい」
 そう答える岬の声は、やる気のなさを前面に押し出していた。それでも、強豪と言われる綾南学院うちで、二年生唯一のレギュラーなのだから驚きだ。普段のへらへらとした態度とは打って変わり、試合中は人が変わったように真剣な表情でコートに立っている。そんな姿を目にしたら、女の子が好きになる気持ちが少しは分かる気がした。知香にどやされてしおれる岬の背中を見つめながら、どうしたらこんなに中身が変わるのだろうかと梨枝子は考えていた。

 岬のようなタイプの人間は、はっきり言って引いてしまう。苦手なのだ。クラスに一人はいるようなお調子者で、いつもきらきらと輝いた笑顔がある。居るだけで皆が注目し、人を惹き付ける。そんな岬の傍に居ると落ち着かなかった。岬とはただでさえテンションが違い、生きているリズムさえ全くずれているように感じた。しかし一方で、岬だけが、なぜか梨枝子のことを“梨枝子先輩”と呼ぶのだ。

「あ、そうだ」
 ふと何か思い出したように、岬が振り返った。その顔は、先ほどの笑顔に戻っている。
「梨枝子先輩」
「え?」
 梨枝子が思わず返事をすると、岬はラケットを振り上げて楽しそうに笑って言った。
「明日、練習試合あるの知ってますよね」
 梨枝子は首だけ縦に動かして頷いた。明日は他県の学校との練習試合が控えていた。全国大会常連という恐ろしい学校で、毎年数回、親睦試合が行なわれている。
「俺が勝ったら、つーか勝つつもりっスけど。ご褒美くれません?」
 全国レベルの強豪校を相手に勝つなど、一体何が言いたいのだろうかと首を傾げると、岬はかごからボールを一つ取り上げ、二ッと悪戯に笑って言った。
「先輩のチュウで」

 岬の言葉に、コート中が静まり返った。周りで打ち合いをしていたボールがぽろっと地面に落ちる。部長までもが、口を開けてぎょっとした顔をしている。皆が一斉に岬と梨枝子に注目した。
 梨枝子は、次に知香が言葉を発するまで固まったまま動けなかった。岬の台詞が素直に飲み込めない。全く予想外の言葉は、いくら噛み砕いても到底理解できる範疇はんちゅうのものではなく、梨枝子の思考回路は完全に停止していた。
「チュウとか言うな、恥ずかしい! あんたねー、梨枝子を困らすのはやめなさいって言ってるでしょ」
 知香はさらに声を張り上げて叫ぶと、先ほど梨枝子が運んできたボールを岬めがけて次々と投げた。黄色いボールが勢い良く投げ出される。しかし、岬はそれを素早くひょいと交わして、その姿はまるでステップを踏んでいるように乱れがない。
「知香先輩が邪魔するからっスよ」
 そう言うと、岬は呆然と立ち尽くす梨枝子を見つめた。
「で、いいっスよね、梨枝子先輩」
 最後はハートマークでも付けたような調子で、岬はへへっと笑った。ふざけた態度が梨枝子をあおる。梨枝子は返す言葉も見当たらなかった。それどころか、胸の中がぐるぐると渦巻いて、嫌な感情が湧き上がってくる。どうして、自分に構うのか。そっとしておいて欲しかった。皆がしているように、他人行儀でいてくれた方がまだマシだった。今までだってずっと、誰とでも適度な距離を保ってきたのだ。頼むから、それを壊さないで欲しかった。距離の掴み方が分からなくなる。隠してきた自分をさらけ出してしまいそうで怖いのだ。そうゆう冗談は他の子と、岬と釣り合う、それ相応の子とすればいい。

「もう、からかわないで! やめて。冗談なら、知香みたいな可愛い子とすればいいじゃない」
 そう叫んではっとした。
「りえ、こ……」
 知香が困惑の表情を浮かべて梨枝子を見ていた。唇が言葉を失くして歪んでいる。しまったと思った。岬もまた、答えに詰まったような驚いた表情で立ち尽くしていた。
 梨枝子は開いた口をゆっくりと噛み締めた。それが答えだったのだ。自分の心の、もやもやとした苦しみ。いつまで経っても晴れない霧のように、霞ませて曇らせた原因。その答えに気付いてしまった。岬と話しているといつも苦しかった。笑顔の仮面が剥がれてしまいそうだった。きらきらと輝く岬の側にいると自然と注目が集まって、全てにおいて薄っぺらな自分と比べられているように感じられた。あまりにもくすんでいる自分を思い知らされるのが嫌だった。太陽の光がなければ輝けない月のような自分の存在に息が詰まりそうだった。いつも自信たっぷりの岬が羨ましくて、嫉妬していた。けれど、そんな醜い自分を認めたくなくて……。
 最低なのは、どっちだろう。

 目頭がじんわりと熱くなってきたのが分かった。
「ごめ……知香。私、水道行ってくる」
 梨枝子は顔を隠すようにして歩き出した。
「ちょ、梨枝子せんぱいっ……」
 岬の声が聞こえたが、梨枝子は振り切ってコートから出、勢いよく走り出した。もう呼吸も出来ないほど、胸が痛くて苦しくて、このまま心ごと潰れてしまいたかった。






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