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 水道はちょうど校舎の陰になっていて、運良く誰も来ていなかった。
 梨枝子は足早に近づくと、勢いよく蛇口をひねった。最初に生温かい水が溢れて、しばらくして冷たい水が出てきた。指先に触れる冷たさが心の動揺を少しは鎮めてくれる気がして、両手を合わせていっぱいに溜めると勢いよく顔にかける。凛とした冷たさが目から溢れる熱を流していき、胸につかえる苦しみが幾分和らいだ気がした。
「男前っスねー、その洗い方」
 突然、聞き慣れた声がすぐ真横から聞こえて、思わず顔を上げると、いつの間にか岬がそこに立っていた。全く気配がしなかったことに驚いて見つめていると、岬は手に持った自分のタオルを梨枝子の前に差し出した。
 梨枝子は黙って首を横に振ると、ポケットからハンドタオルを取り出した。
「んな、遠慮しないで下さいよ」
 まるで何事もなかったかのように振る舞う岬に、梨枝子は微かにいらつきを覚えた。必死で一定の距離をおこうとしているのに、岬はお構いなしにその壁を突き破ってこようとする。少しでも気を許せば、そんな岬にのまれてしまいそうで何だか怖い。一度受け入れてしまえば、きっともうその先は見えなくなる。ただの後輩の岬を、きっとそれ以上に……。

「早くコートに戻った方がいいよ。部長に怒られるよ」
 感情を押し止めて、少し冷たく突き放す。目を逸らして言ったのは、醜い感情に染まった顔を見られたくなかったからだ。
「ん〜……ま、平気っしょ。今は梨枝子先輩の方が大事なんで」
 岬は照れもせずにそう言ってへへっと笑った。梨枝子は小さく息をついた。大事だなんてよく言えるものだ、何も知らないくせに、と梨枝子は奥歯を噛んだ。口先ばかりの言葉が逆鱗に触れる事を岬はまだ知らないらしい。どうゆうつもりか知らないが、なぜそんなデマカセが軽々しく言えるのか不思議だった。相手に期待させるようなことを平気で言うなんて、やはりからかってるとしか思えない。
「私なら平気だから。すぐコートに戻るから、比良くんも先に戻ってて、ね」
 早くコートに戻って。私から離れて。思わずそう言いそうになったが、無理に微笑むことでけん制を促した。けれど、そんな梨枝子の思いは伝わらなかったようで、岬は変わらぬ笑顔できっぱりと言った。
「少しでも梨枝子先輩と一緒にいたいんで。俺もここにいます」
「……そう。なら、私は先戻るからね」
 素っ気なく返事をすると、梨枝子はそのまま歩き出そうと足を踏みしめた。こうして話をしているだけでも心のペースが散々に乱れてしまう。早く立ち去ろうと思い岬の横を通り過ぎようとしたが、その瞬間、右腕を強く掴まれた。思わず足を止めて振り向く。、声には出さなかったが内心、心臓が飛び跳ねた。

「先輩……」
 先ほどとは打って変わった低い声が、梨枝子の鼓動を一段と速める。年下の岬は梨枝子よりも少しだけ背が高く、見上げると立場が逆転したように感じた。
「俺、マジっスよ」
 真横に立っているせいで顔色を窺うことができず、梨枝子は籠に捕まった鳥のように全身が徐々に強張っていくのを感じた。
「どうしたら、信用してくれるんスか」
 それは、いつもの陽気な岬らしからぬ声だった。梨枝子が腕を振り払おうとすると同時に、体ごと引き寄せられた。胸に顔がぶつかり、小さく呻いたが、岬はますます抱きしめる腕に力を込めた。
 梨枝子は初め、抱きしめられているということがすぐには理解できなかった。それ以前に、男の子に抱きしめられた経験がなかった。しかし、気付いた頃にはもう動けない状態で、顔の周りが一気に熱を帯びる。。

「や、離して」
 抵抗しようと声を上げてもがくが、出来た隙間はすぐ傍から戻されてしまう。背中を抱きしめていた岬の手が頭の後ろに回って、口を塞ぐようにさらに顔をきつく胸に押し付けられた。
「やだっ、離して比良くん」
「じゃあ梨枝子先輩も、ちゃんと、俺のこと見てよ」
 掠れた声がそっと耳元をくすぐり、梨枝子の体が微かに震えた。そのまま抱きしめる腕に力がこもる。体中が密着して重なり触れ合って、その一つ一つに全神経が集中してしまう。
 熱かった。ここは日陰のはずなのに。全身が心臓になったみたいに大げさに揺れる。自分とは違う硬い体も、大きな手も、微かな香りも。くらくらと眩暈がしそうなほどに熱い。さっきまでただの後輩だったはずの岬が、今は異世界の人のように遠く、同時に愛しい自分の一部分のように近くに感じられた。
 しばらく抵抗していた梨枝子は、いつの間にか岬に体を預けるように自然と力を抜いていた。

「いつもこんな風に素直だと、嬉しいんスけどね」
 柔らかい、優しい声が頭上から降りてきて、抱きしめていた力がふっと緩み、梨枝子は少しだけ体を離して見上げると、岬は見上げる梨枝子に目を合わせた。梨枝子は抵抗することさえ忘れて、ただ呆然と見上げていた。まるで愛しいものを見つめるような柔らかい岬の眼差し。なぜか岬の方が年上に感じられて不思議な気分だった。
「私のことなんて……何も……何も知らないでしょ」
 震えた声で精一杯の言葉を投げる。片足一本で立っているような不安で脆い心。それでも、虚勢を張ることしか、自分を守れなかった。嫌って欲しいのに、嫌われたくなくて、自分でも持て余してしまう先の見えない感情。
 そっとまつ毛を上げると、岬の黒い瞳に自分がいっぱいに映っていた。そして、その目がふっと細まった。
「ねえ、梨枝子先輩。俺、先輩の優しいとこも、いつも気付かないところで一生懸命なのも、笑うとすんげー可愛いとこも、時々、寂しそうに浮かべる切ない表情も……もう知っちゃったんスよ」
 ほんの少しふざけたように茶化して、だけどその目は真剣なまま、「だから……」と囁きながら岬は梨枝子の耳元に唇を寄せた。

「好きだから、俺のものになってよ、梨枝子先輩」

 そう囁いて、再び岬は梨枝子を抱きしめた。先程とは違い、包み込むような優しい抱き方に、梨枝子は胸が切なく縮まるのを感じた。
「ど……して。私なんて、自分にさえ、自分の良いところが分からないのに。誰かから好かれるほどのものなんて、何も、何もないのに」
 堰を切ったように想いが溢れた。伝わる岬の温もりがジンと胸に沁みて、凝り固まっていた心を溶かしていく。岬の胸に当てられていた梨枝子の手が、岬のシャツごと強く握り締める。
 本当ははずっと、ずっと苦しかった。誰も自分を必要としてない、だけど認めるのが怖くて。弱音を吐くと潰れてしまいそうだった。
「自分から距離をとれば、傷つかずに済むって必死で、私……」
 整理がつかないまま、言葉だけが次々と流れるように出てくる。だけどそれを止めようとは思わなかった。

「梨枝子先輩のいいトコ、俺、全部わかってるから」
 そう言って梨枝子の頭を優しく撫でる岬の手は、誰よりも大人だった。
「嘘、うそ。私、比良くんに好かれる理由なんて、思い当たらない」
「それは……」
 岬はいったん躊躇して、恥ずかしそうにぼそぼそと呟いた。
「好きになっちゃったんだから、しょうがないっスよ。俺だって、梨枝子先輩への気持ちが大き過ぎて、持て余してばっかで、ホント調子の良い態度しか取れなくて……」
 照れ隠しをするように頭を掻いた。
「馬鹿みたいに子どもじみてて、自分でも呆れるくらいなんスから」
 そう言って、照れくさそうに苦笑いを浮かべた。

 初め呆然としていた梨枝子は、そんな岬の偽りのない態度を見て、不思議とその姿がいじらしく、微笑ましくて、気付けば自然と笑みがこぼれていた。
「あ、それそれ、梨枝子先輩は笑ってる方が断然可愛いっスよ」
 そう言って笑った顔は、夏の太陽よりもキラキラと眩しく見えた。岬のストレートな言葉は、不思議と心にストンと落ちていく。水滴が落ちて波紋をよぶ様に、梨枝子の心に浸透して響いた。
「ありがとう」
 こんな風にありのままに、素直に気持ちを返せた自分を、梨枝子は心の底から嬉しく思った。


「さて」
 そう言って岬から体を離すと、梨枝子はにっこりと笑って言った。
「戻ろうか。知香にも、心配かけちゃってるだろうし」
 吹っ切れたように笑う梨枝子の髪を、暖かい夏の風がさらさらと揺らした。
「そうっスね」
 岬もまた、笑顔を浮かべて返事をすると梨枝子の隣に並び、二人はゆっくりと歩き始めた。
 やがて、校舎の角を曲がろうとした時だった。
「あ!」
 突然、岬は何かを思い出したように立ち止まった。
「なに?」
 首を傾げて見上げると、岬は楽しそうに声を弾ませて梨枝子を見た。
「で、先輩。チュウの約束はOKなんスよね?」
「えっ!?」
 梨枝子はぎょっとして身を引くと、その前に岬の唇が梨枝子に触れた。ほんの一瞬、掠ったのか触れたのか、よく分からない余韻を残す唇を、梨枝子は慌てて手で覆う。
「ちょっ……」
 口元を押さえたまま絶句している梨枝子に、岬は二ッと笑うと言った。
「ってことで、明日の約束のチュウは“大人のチュウ”っスよ、梨枝子先輩」
「えっ」
 梨枝子は顔を真っ赤にして反対しようとした。しかし、それより先に、「じゃ、お先に!」と言って岬は逃げるように走って行ってしまった。いや、やはり逃げられたのだろう。
 梨枝子はその後姿を見つめながら、先程とは違う心地よい自分の心に気付いていた。

「大人のなんて……知らないよ……」
 顔が赤いのは熱い熱い太陽のせいか、それとも……。
 複雑な顔で立ち尽くす梨枝子を、夏の太陽だけが知っていた。








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