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 ゴトン……ガタン……。
 カンカンカン……。
 不規則に揺れる電車と、時折訪れる踏切の音が意識の向こうからぼんやりと聞こえてくる。もう一時間以上も続くその音の心地よさに、沙織さおりは意識を手放していつの間にか眠っていた。
 ふいに目が覚めて、虚ろな意識のままゆっくりと目を開けると、一人だと思っていた沙織の隣には、しっかりとした温もりがあった。どうやらその肩に寄りかかって暫く眠っていたようで、そのことに気付いて体を起こそうと思い立つと、同時に隣の人物がわっと嬉しそうに声を上げた。
「あ、見えてきた! ほら、海だ海」
 窓の外を見つめる瞳を子供のようにきらきらと輝かせて沙織を揺り起こしたのは、二時間前に初めて言葉を交わしたばかりの見知らぬ男の子だった。



終 点




 昨日、珍しく忘れ物をして、教室に取りに戻った時のことだった。
 静かな廊下を早足に教室の前まで来ると、ドアは20cmほど開いていた。中から数人の男子の話し声が流れてきて、男子だけという気まずい空間と、ひっそりと繰り広げられる只ならぬ雰囲気に、沙織は思わず足を止めた。

「え、珠綺たまき沙織? あー、アイツね。確かに眼鏡かけてて美人ぽいけどさ、何か真面目そうで堅い感じじゃん。俺、あーゆーのパス」
 数人の男が相槌を打つ代わりにゲラゲラと笑う。
「なんつーかさ、無遅刻無欠席目指してますっての? 風紀委員とかやったらマジはまり役で笑えるっつーの」
「ひっでー! 珠綺が聞いたら殴られるぜ、お前」
 はしゃいだ声が重みを含んで耳元から流れ込んでくる。喉の奥に息苦しさを感じて、沙織は奥歯をそっと噛み締めた。うつむいたせいで下にずれた眼鏡を咄嗟とっさに押えようと当てた指は、そのまま動きを止める。白い指が微かに震えた。
 本人達はひっそりと話しているつもりらしいが、盛り上がると我を忘れて声を張り上げてしまうパターンだ。どうやらクラスの女子の人気投票らしいと分かって、腹の中が重たくなった。
 たかが陰口。それは誰だってされることで、今はたまたま自分に当たっただけのことだ。気にする事はない。人の悪口を言う事しか楽しみを見出せない下衆げすな根性だと鼻先で笑ってやればいい。
 しかし、いつもの強気な態度も、一向に起きてはこなかった。
『俺、珠綺さんのそーゆー真面目なところ、良いと思うよ』
 ほんの一週間前、そう口にした人間の言葉とは思えなかった。お世辞でも嬉しかった。笑顔でさらりと述べた彼の言葉を、彼自身を、信じようと思った。
「ちょっと成績いいからってさ、いつも鼻にかけてるよな。ホント、女としては苦手なタイプ」
 言葉が耳に届いた瞬間、頭の中がしんと静まり返った。心の中が粉々に砕けて何も無くなってしまったように、感情が一瞬にして抜け落ちる。
 沙織は何も言わず踵を返すと、来た道をまた歩き出した。


「珠綺さん、珠綺さん」
「……何ですか」
 沙織は面倒臭そうに目を細めて顔を上げ、そしてまじまじと男の顔を見つめた。どうしてこんなヤツといる破目になったのだろう。
 今朝、目覚めた時間はいつも通りで、やはりサボるなんて度胸は自分にはないと知って空笑いをした。無遅刻無欠席、当たってるじゃん、と沙織は自嘲しながら、駅のホームに立ち、いつもの電車に乗り込んだ。
 降りる駅までは四十分くらいだ。車内はきつい香水や整髪剤の鼻につく匂い、スーツに染み付いた煙草の香りが入り混じって、息が詰まり苦手だった。沙織は鞄の中に手を入れてMDを取り出すと、音楽をかけて気を紛らわさせるのが常だった。
 ここまでは、いつもと変わらない日常だったのだが……。

 ふと、電車が大きく揺れて目覚めた時、車両は見事に空っぽだった。不思議に思って外を見ると、電車は見知らぬ土地を走っていた。薄汚れたビルばかりを通り抜けていたはずが、一軒家が転々と建っているだけの、いわゆる郊外へと来てしまっていた。
 終点を告げるアナウンスが流れる。そしてその時、沙織の隣に座って眠っていたのが、彼、東堂とうどう一真かずまだった。

 車内にたった二人だけ、見知らぬ者同士がいる感覚。しかも寄り添うように隣同士だった。見知らぬ男の子の頭が沙織の肩にかかっている。横目で窺うと、窓から差し込んだ陽射しに髪の毛が反射して、金糸きんしのように透けて輝いていた。角が擦れて使い古された様子の紺地の通学鞄を胸に抱え、安らかな寝息を立てている。ベージュのニットベストの下には白いシャツを着て、第二か第三ボタンまで外されていた。肌蹴た胸元が、そのまま彼のオープンな性格を表しているようで、頭が軽そうだな、と沙織は冷めた目で見ていた。
 しかし、寄りかかられているせいで席を移動することもできない。できれば目覚める前に席を立ちたいのだが、今、席を外したら、彼は間違いなく横に倒れこむだろう。そしてそのまま脇のパイプに頭をクリーンヒット! その痛みを考えただけでぞっとする。
 すると、小さく唸る声がして、男の子がもぞもぞと動いた。寄りかかっていた沙織の肩から体を起こすと、大きく欠伸をしながら両腕を上げて伸びをし、ちらりと横目で沙織を見た。沙織は気まずい思いのまま、黙って微かに眉を寄せる。寄りかかっていた位置からして背が低そうだなとは思っていたが、顔もまだ幼さが残っていて、可愛らしい感じだった。
「あの、ここ、どこですか」
「終点、みたいですけど」
 沙織が素っ気なく答えると、締まりのない男の顔がさっと真顔になった。同時に、電車が走りを止めた。

「上りの電車ねー。どうやらY駅でひどい人身事故があったらしくて止まってるんだよね。どのくらいかかるかって? 連絡が来ないから、いつ再開するかはちょっとねえ」
 白髪交じりの年配の車掌は、伸びた顎鬚を手のひらで擦りながら沙織と男の子を珍しそうに交互に見つめた。年のせいか瞳の色が薄く灰色で、目尻の皺が優しい印象を与える。

「乗り過ごしちゃったのかい、学生さん。学校はどこの駅かな」
「私はK駅です」
「そうか。随分遠くまで来たもんだねえ。えーと、そっちの君は」
 車掌は男の子の方に顔を向けた。
「F駅です」
「えっ」
 沙織は思わず声を上げて振り向いた。F駅は隣りのさらに隣りの県だった。沙織が乗る駅よりもだいぶ手前である。この路線の電車はいくつかの県境を縫うようにして走っているのだ。
 車掌さんはまた顎鬚に手を当てて唸ると、「ちょっと待ってなさい」と言って、事務室に引き返していった。

「終点って、こんなとこなんだ」
 男の子は物珍しそうに辺りをキョロキョロと窺った。沙織が黙って見つめていると、ふいに目が合い、にこりと笑顔を返され戸惑う。
「名前、何さん?」
「珠綺ですけど」
「へえ。俺の学校の先生と同じだ。あ、俺は東堂、東堂一真って言います。……で、下は?」
 初対面の相手にすらすらと質問を並べる馴れ馴れしい態度に、沙織は呆気に取られて言葉に詰まっていると、先ほどの車掌が大きな紙を抱えて戻ってきた。
「今確認したんだけど、やっぱり当分再開しないみたいでね。それで、別ルートなんだが、回り道になるけど、待ってるよりは早いと思うよ」
 路線図をホームのベンチいっぱいに広げると、今いる駅を指差した。
「ここから、バスで三十分くらい行くと、W駅に着くから。そこから電車に乗って、一時間半くらいで接続の駅に着く。そうしたら君はJR線に乗って」
 車掌は沙織の方をちらりと見て合図をし、次に一真の方に振り返った。
「で、君はM線ね。時間はかかるけど、お昼ごろには間に合うと思うよ」
「あ、はい」
 一真は気の抜けた返事をすると、沙織の方を一瞥して楽しそうに頬を緩めた。
「たぶん彼女が分かってると思うんで、大丈夫です。頭良さそうだし」
 おいおい、と沙織は心の中で一人ツッコむ。言い返す言葉もなく、仁王像のように眉をしかめて口をあんぐり開けた。二人きりで行動するなど迷惑な事この上ない。
「よっろしくー。珠綺さん」
 沙織が長々とため息を漏らすのを、全く気付かない様子で一真が無邪気に笑う。
 精神的にも最悪なコンディションの時に限って、電車を乗り過ごし、とんでもない田舎に来てしまい、はた迷惑な性格の見知らぬ男の子と二人きり……。
「最悪……」
 これが、沙織と一真の始点ともなるべき、始まりだった。




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